『日経研月報』特集より

デジタル化経済における競争の構造的課題~アダム・スミスとフランク・ナイトから考える~

2022年8月号

加藤 晋 (かとう すすむ)

東京大学社会科学研究所 准教授/日本政策投資銀行設備投資研究所 客員主任研究員

はじめに

公正な社会とはいったいどのようなものだろうか。いったい何が社会正義なのか。
これは、20世紀最大の政治哲学者ジョン・ロールズ(1921-2002)が生涯にわたって考え続けた問題である。ロールズは、この難問に対して、ある種の戦略をもって臨んだ。それは、社会の公平性をその「基本構造(basic structure)」から考えていくというものだった。つまり、人の行動の正しさではなく、社会の構造の正しさを問題の中心に置いたのである。
本稿は、ロールズの公平性や正義を論じることを目的としていない。ここで検討してみたいのは、現代社会の「競争の基本構造」のようなものである。「競争」(competition)とは、広くライバル関係のようなものを指し示している言葉である。競争の概念は、古くは訴訟における対立関係などを表していたとされるが、アダム・スミス(1723-1790)をはじめとする啓蒙時代の経済学者たちによる議論を通じて、経済学の基本的な概念へと生まれ変わっていった。時代が変われば競争をめぐる構造も変わるはずである。本稿では特に、デジタル化によってプラットフォーム企業が台頭するなかで、競争をめぐる社会の構造がどのように変化しているのかを考えてみたい。
ところで、このことは、ロールズのテーマと関わっていないわけではない。というのも、ロールズにとっても、市場とそこでの競争は、社会の核の一つだったからである(ロールズ『正義論』(2010)第5章)。実際、彼の考える競争の考え方はスミス以来の経済学のなかで培われたものにほかならない。ここでは、経済学の競争の考え方の出発点となったスミスの思想、そして、その後、ターニングポイントとなったフランク・ナイト(1885-1972)の思想を辿りながら、現代の競争をめぐる変化を考えていくこととする。

1. 現代の競争と構造変化

まず、最初に現在の競争について簡単に触れておきたい。現在、市場における競争の構造が大きく変化しつつある。かつてないほどと言ってもよいのではないだろうか。それは「デジタル化」が進みつつあるからである。自分のことを「アナログ人間だ」という風に思っている人でも、10年前と比べれば、自分の生活のうちのかなりのことが変わったはずである。
例えば、スマートフォンを手にしている時間は少し前に比べて飛躍的に増えたはずである。また、決済手段も変化したものの一つだろう。現金ではなく、クレジットカードやPay Payなどで決済するようになった人は少なくないはずだ。かつては電車の行き帰りで新聞を開いていた人も、いまはスマートフォンの画面で記事を読んでいるかもしれない。移動中に、スマートフォンで、レヴューを確認してインターネットで商品を購入する人も多い。
これらはデジタル化がもたらした社会変化のほんの一部だが、これだけでもかなりの影響だと感じられる。ここで挙げたのは、デジタル化にともなう人びとの行動の変化のようなものだが、これには企業の変化も関わっている。消費行動と企業活動は表裏一体だからである。
すでによく言われていることだが、かつての世界的企業のランキングには、多くの製造業の企業が名前を連ねていた。現在では、GAFAをはじめとするプラットフォーム企業で埋め尽くされている。このことがまさに競争の構造を変化させている。
プラットフォーム企業は、経済学の世界での企業のイメージの源泉となっていた、製造業企業とは異なる。製造業の場合、資本と労働を生産要素として用いて、何らかのモノを生産し、市場で販売する。プラットフォーム企業は、その名のとおり、出会いの「場」を提供する。例えば、自分の仕事を探している人がいるとしよう。闇雲に行きたい企業名を思い浮かべて連絡を取っていては時間がとてつもなくかかるだろう。企業の側も、自分たちのオフィスの前に「人材求む」と掲げるだけでは、なかなか欲しい人材はやってこない。労働者側は、自分の希望する仕事に近いことができるうちで、どのような企業が募集しているかをなるべく効率的に知りたい。企業もまたどのような人材がいま仕事を探しているかを知りたいだろう。ポイントは、両者が自分たちに必要な「情報」を知りたいという点である。情報を集めて、企業と労働者の2つのサイドをマッチングさせることは、典型的なプラットフォームの役割である。このような意味でのプラットフォームは、古くからあった。例えば、職業安定所などがそれである。
この意味では、プラットフォームという存在は決して、新奇なものではない。しかし、競争の構造転換を迫るほどになったのは、近年のことだと言ってよいだろう。情報技術の発展、そして、デジタル化によって、情報を移動させることが大幅に容易になったのである。マカフィーとブリニョルフソン(2018)が指摘するように、デジタル技術によって、情報を「複製」することのコストがほぼゼロになってしまったことによって、プラットフォームというものをめぐる構造が大きく変化したのだ。
デジタル化が進むまでは、文章や画像は紙に印刷して、冊子にする必要があったし、音楽の複製にも一定のコストがかかっていた。現在では、文字や音楽はほとんど無料で複製し、配布することができるようになった。映像すら簡単に共有することができてしまう。こうした技術の変革は、より広範囲に効率的に情報を提供することを可能にする。これによって、さまざまな形態のプラットフォーム企業が誕生したのである。
グローバル化やニーズの多様化によって、人びとが生活のうえで欲しいと思う情報の量も膨大に増えていっている。プラットフォーム企業の提供する「場」に参加することで得られるメリットは日に日に大きくなっているのである。
しかし、プラットフォーム企業は、その本質により、さまざまな情報そして技術や人を繋げるというネットワークの性質を持っており、伝統的な企業と大きく異なる。つまり、通常の企業との間の競争と、プラットフォーム企業をめぐる競争は異なっている。企業や消費者にとっては、どのプラットフォームに参加するかということも、重要となってくるからである。これは、参加する側の企業間の競争の問題であると同時に、プラットフォームを提供する側の間の競争の問題でもある。こうした競争の複雑化/多層化によって、デジタル化とプラットフォーム企業の台頭は、社会における競争のあり方そのものを大きく変える可能性がある。

2. アダム・スミスからフランク・ナイトへ

競争はどのようにあるべきなのだろうか。このことを考えるために、2人の経済学者の思想を取り上げてみたい。競争の基本的な見方を与えたのは、スコットランドの経済学者であるアダム・スミスだろう。スミスは、道徳哲学の研究者として『道徳感情論』を執筆したのちに、『国富論』によって現代の経済学の基本的な考え方を提案した(スミス,2001,2002,2013)。特に、彼の思想は「見えざる手」という言葉で知られている。スミスによれば、政府による利害の調整がなくとも、個々人が自らの利益を追求すれば、まるで「見えざる手」によって調整されているように公益(=経済発展)にとって望ましい方向に進む。
スミスの「見えざる手」の議論は、ある種の競争肯定論としてみなせるだろう。それは、自己利益の追求によって、相手を出し抜いて利潤を追求していくことは、決して社会悪ではなく、経済が発展していくということを意味するからである。こうした考え方は現代においてはかなり受容されているところもあるが、産業発展のはじまりの時代においては、かなりエキセントリックなものと受け止められたところもあるはずである。
しかし、スミスの競争には重大な留保条件があることも忘れてはならない。それは、「フェアプレイの精神」である(堂目,2008)。つまり、人びとが利益追及をすることはよいが、それは、競争がフェアに行われているときのみなのである。このことは、スポーツなどを想像してみるとわかりやすいかもしれない。
スポーツの鍵はまさに競争である。参加者が競い合うからこそ、スポーツのレベルが向上していくのである。しかし、相手に勝つために何でもしてよいわけではない。審判の見えないところで、相手を蹴り飛ばしたりするような違反行為をすることは決してフェアプレイとして認められない。あくまでルールを尊重し、フェアにプレイしてこそ、なのである。実際、八百長や重大なルール違反によって、スポーツが大きな損失を負ったことも、少なくない。
このアダム・スミスのフェアプレイの条件はとても理解しやすく、理にかなっているものである。それでは、フェアプレイで行われているならば、それでよいのだろうか。
競争がいいものかどうかをスミス以上に追求し、ターニングポイントとなったのが、1920年代以降に活躍したアメリカの経済学者であるフランク・ナイトである。ナイトは、ロールズの思想にも大きな影響を与えている。彼が、市場原理主義や保守的な立場で知られるシカゴ学派のリーダーだったことを知っている人は違和感を感じるかもしれないが、実はナイト自身は、現代的な市場原理主義の立場ではなく、市場あるいは、競争というものの意義を注意深く評価していた。
そのナイト(2021)は、『リスク、不確実性、利潤』のなかで、経済学における競争の概念を、解剖するかのごとく丁寧かつ厳密に分析していった。これにとどまらず、このことが持つ公共的意味合いに踏み込んでいったのが1923年に出版された「競争の倫理」という論文である(ナイト,2009)。この論文におけるナイトの思想を簡単に整理してみよう。
ナイトによれば、現代の競争社会は一つの「ゲーム」とみなせる。言い換えれば、競争社会の「基本構造」というものが、ゲームのようになっている。ゲームには、ルールがあり、そのもとで、ゲーム参加者が自由にプレイする。そして、ルールには人びとがどのように行動ができるかを規定するとともに、行動の結果として起こることも定めてある。競争社会では、自由意志のもとで商品の取引を行えば、所有権が移転することなどが、ルールとなっているのだ。ナイトは、このような「構造」の部分に注目することで、さらに深い洞察が得られると考えたのだろう。
このことを踏まえたうえでの、ナイト(2009)の問いは次のことである。いったい、魅力的なゲームとはどのようなゲームだろうか。この問いが大事なのは、ゲームの魅力を分析することが、競争社会の魅力を紐解くための鍵になると、ナイトが考えているからである。
これに対してナイト(2009)は3つの要素を挙げている。それは、①運(luck)、②努力(effort)、そして、③才能(ability)の3つである。まず、運の要素がなければ、ゲームは面白くない。なぜなら、完全に結果のわかっているゲームに誰が参加したいと思うだろうか。ほとんど当たらないことがわかっていても、それでもわずかに可能性があるからこそ、万馬券を購入するのである。その意味では、0%と1万分の1(0.01%)の間には大きな乖離が存在するのである。
2つ目の要素は、努力である。プロスポーツは、選手たちがスキルを磨いたり、努力して成長する姿をみるところにも魅力がある。努力によって、成績が変わる方がゲームは魅力的なのである。これは、将棋や囲碁といったボードゲームからもこのことが理解できる。棋士たちは日々鍛錬に励んでいるのだ。最後の、3つ目はもっとも過酷な要素ともいえるのではないだろうか。才能の違いが結果に影響が出た方が魅力なのである。才能のある若きスーパースターが出てきて、往年のベテラン選手(あるいは棋士)を倒していくことで、プロスポーツや棋界は大きく盛り上がる。これは、才能による結果の違いが出るということが、ゲームの魅力の一つだからである。
努力や才能の重要性を理解するための極端な例として「じゃんけん」を考えてみよう。このゲームには、運以外の要素が一切存在しない。いくら努力しても、才能があってもほとんど運のみが結果を左右するのである。やむなく、決着をつける場合に行うのであって、「じゃんけん」をやること自体に大きな魅力を感じている人は少ないのではないだろうか。人びとが熱狂するスポーツなどでは3つの要素がうまくバランスされている。
ナイトはこれら3つの要素から捉えることで、ビジネスという競争社会の構造的本質がわかると考えたのだろう。スミスはフェアプレイを挙げたが、これもゲームの魅力のための重要な要素である。この意味で、ナイトのアプローチは、スミスが大枠の直観で捉えようとしたものを引き継いで、さらに深掘りしたものと捉えられる。

3. デジタル化経済のもとでの競争

スミスやナイトの思想から現在の競争の構造変化に何がいえるのだろうか。あるいは、デジタル化の潮流のなかで、スミスやナイトの考えたことはどれくらい妥当なのだろうか。
まず、プラットフォーム企業の発展のなかで重要となるのは、ゲームのルールの難しさだろう。プロスポーツや囲碁・将棋もそうだが、ゲームのルールは時代とともに変わる。技術発展とともに、スポーツでもビデオ判定などが導入されるようになった。また、バスケットボールでも3ポイントシュートのラインが変わったりする。スキーなどはルールがよく変わることでも知られている。競争社会のルールも時代とともに変わるのが必然なのである。
しかし、先述のように、プラットフォーム企業が多くあるような競争社会のなかでの、ルールはとても複雑で多層的になってしまう。ティロール(2018)が『良き社会のための経済学』でも強調していることだが、プラットフォーム企業の活動は相互に関わり合いのある多面的なものになってしまうので、うまく規制することが困難なのである。
さらに、プラットフォーム企業は、ほとんど必然的に取引相手の情報を集めるという性質を持つ。これは、人びとがプラットフォームを利用する理由が、より簡単に情報にアクセスすることを目的とする場合が多いことからもわかるだろう。しかし、いったん集められた情報は、プラットフォーム企業によって一定の活用がなされてしまう。インターネットを検索していたら、明らかに自分用にカスタマイズされた広告が出てくることは少なくない。検索の記録や年齢などによって推測することで、こうしたものが出てくるのだ。これはとても便利だが、プラットフォームが手に入れる情報のなかには自分にとってあまり公になってほしくないようなものもあるだろう。
だとすれば、この集められた情報は誰のものなのだろうか。もしも、プラットフォーム企業が集めた情報を「所有」するのだとすれば、これを売ることができてしまう。そうすることができるのであれば困ったものだが、実際はアプリをダウンロードするときなどに、第三者に情報を渡さないことを前提に契約している。その意味では安全といえば安全である。しかし、どこまでこのような規約を確認しているのだろうか。最近のアプリの規約はかなり長くなってしまい、急いでダウンロードしなければならないときなどは読めるような長さではない。規約が複雑になりすぎているのである。
かといって、簡略化するわけにはいかないだろう。ある商品の平均的な顧客満足度などは、プラットフォーム企業が自分たちで集めた情報を集計したものだが、これに関してはプラットフォーム企業にも自由に扱う権利があってもおかしくない(ティロール,2018)。しかし、どちらに権利があるかについての線引きは常に難しいのである。簡略化するとトラブルの原因を増やしてしまう。
ヨーロッパでは、データの取り扱いについて「一般データ保護規則」(GDPR:General Data Protection Regulation)ができた。これはデジタル化時代の競争社会のルール作りを試みたものといえる。日本でも、「デジタルプラットフォーム取引透明化法」が2020年6月3日に公布されている。特に、日本においてはルール整備がはじまった段階である。だが、デジタル化経済やプラットフォームの変化は激しく、さらなるルール改定をその都度していかなければならない。
こうしたことから、現代の競争の構造的課題がいくつか見えてくる。一つは、特定の「競争」ゲームへの参加者が、とても見えにくいかたちで不利になってしまう可能性があるということである(加藤・伊藤・石田・飯田,2021)。情報を「財」として見ると、多くの人が同時に利用でき、また、特定の人のアクセスを防ぎにくく、「公共財」と経済学で呼ばれているものに近い。この特質によって、人や企業は自分の持っていた重要な情報そのものを失ったりすることはない。しかし、情報自体を失っていなくても、「情報の価値」を失うことがある。例えば、自分の生産的なアイディアが、ウェブ上に公開されてしまったら、誰にとってもアクセスできてしまうため、その価値はほとんどゼロになってしまうだろう。
モノではない「情報」を悪用されるようなことがあったとしても、スミスが提案したところの、競争上のフェアプレイの精神に反するかどうかを判定するのはかなり難しい。一概にはフェアプレイに反すると言いにくい場合も多いだろう。しかし、判定が難しいことそれ自体も問題である。悪意を持った市場参加者がフェアプレイに反する行動をしやすくなるかもしれない。現代の「競争ゲーム」のルール、特に、情報に関わるそれをうまく制度設計しなければ、長期的には、プラットフォームの情報提供者たちが本来自分たちに帰属すべきものを失ってしまうかもしれないのだ。つまり、競争する市場参加者たちが、フェアプレイをしているかどうか判定しやすくするための、透明性を確保するようなルール作りは欠かせないものとなるだろう。
一方、フェアプレイ以外にも重要な課題がある。デジタル・プラットフォーム企業の登場は、フェアな競争環境を維持するために、多くの制度変更を何度も必要とするかもしれない。しかし、ゲームにおける頻繁なルール改定はその魅力を下げる可能性がある。毎試合ごとに、ルール変更されるようなスポーツに誰が魅力を感じるのだろうか。ナイトの「ゲームの魅力」という観点からすれば、このことはデジタル化時代の競争の本質的困難性の一つといえるだろう。
そして、課題は、プラットフォーム企業とその利用者の間だけにあるわけではない。プラットフォーム企業の間にもあるだろう。プラットフォーム企業は寡占や独占になりやすい。これについては、普段から自分たちがアクセスするプラットフォームの数からも実感が湧くかもしれない。それぞれのジャンルで、極めて支配的ないくつかのプラットフォーム企業が思いつくだろう。
いったん、支配的な地位に立つことに成功したプラットフォーム企業はその地位をなかなか失わない。それは、より多くのプラットフォームのユーザーがいればいるほど、プラットフォームの魅力が上がるためだ。そして、レビューなど、ユーザーが過去に提供された情報は多くの場合、たとえそのユーザーが利用しなくなっても、そのプラットフォームに残ることとなる。ひとたび、情報が集積され多くのユーザーが集まったプラットフォームは、競争優位を失いにくいのである。こうした点は、技術革新により競争優位の変わる製造業などとは大きく異なる。
シェアの集中が起こりやすいこと、そして、競争優位の変化のしにくさは、企業間での「ゲームの魅力」に影響を与えるだろう。一度、優位に立ってしまうと勝敗がわかりきってしまい、努力をしても無駄というようなゲームは、魅力が低いものとなってしまう。これは現代における競争の構造的課題の大きなものとなるだろう。つまり、人と企業の間で、そして企業と企業の間で行われる、競争というゲームの魅力を損なう可能性があるということが、ナイトの観点から見たときの問題となる。

4. 現代の競争に倫理があるのか

実は、ナイトは、競争社会をゲームの構造として捉え、その魅力から本質を見極めようとしただけにはとどまらなかった。彼は、競争社会にゲームとしての魅力を超えた価値があるかどうかをさらに検討している。ナイトによれば、競争の価値を考えるうえでは、「倫理」的な側面も重要になる可能性がある。これは、スミス以来の経済学的な考えより前の伝統的な価値観も、無視してはならないということだろう。現代の競争は、果たして倫理的な観点から見てよいものなのだろうか。これについては、本稿での検討を控えるが、ロールズ以来の現代の正義論や倫理学が大きなヒントを与えてくれるように思われる。もちろん、『道徳感情論』を執筆したスミスの思想も役に立つだろう。
ところで、ロールズは、倫理学だけでなく、経済学も学び彼の正義論を彫琢したことはよく知られている。その際に、ナイトの経済学から影響を受けたというのは偶然ではないのかもしれない。ロールズとナイトは両者ともに、自分自身の生きた時代の社会のあるべき姿を考えようとして、構造的課題を考え抜いたのである。倫理/正義と経済の結びつきは、現代社会の構造的課題を考えるうえでも重要な鍵となるのではないだろうか。

参考文献

・加藤晋・伊藤亜聖・石田賢示・飯田高(2021)『デジタル化時代の「人間の条件」』筑摩書房。
・スミス,アダム (2000,2001)『国富論』岩波文庫、水田洋監訳・杉山忠平訳。
・スミス,アダム (2013) 『道徳感情論』講談社学術文庫、高哲男訳。
・ティロール,ジャン(2018)『良き社会のための経済学』 日本経済新聞出版、村井章子訳。
・堂目卓生(2008)『アダム・スミス』中公新書。
・ナイト,フランク (2009)『競争の倫理』ミネルヴァ書房、高哲男・黒木亮訳。
・ナイト,フランク (2021)『リスク、不確実性、利潤』筑摩書房、桂木隆夫・佐藤方宣・太子堂正称訳。
・マカフィー,アンドリュー&ブリニョルフソン,エリック (2018)『プラットフォームの経済学:機械は人と企業の未来をどう変える?』日経BP、村井章子訳。
・ロールズ,ジョン(2010)『正義論 改訂版』紀伊國屋書店、川本隆史・福間聡・神島裕子訳。

著者プロフィール

加藤 晋 (かとう すすむ)

東京大学社会科学研究所 准教授/日本政策投資銀行設備投資研究所 客員主任研究員

1981年生まれ、2004年大阪大学経済学部卒業、2009年東京大学大学院経済学研究科博士課程修了 博士(経済学)、2012年4月-2014年3月 首都大学東京大学院社会科学研究科 准教授、2014年4月-東京大学社会科学研究所 准教授(現職)、2018年5月-日本政策投資銀行設備投資研究所 客員主任研究員
専門領域 厚生経済学および組織の経済学
主要著書(共著含む)加藤晋,伊藤亜聖,石田賢示,飯田高(著)『デジタル化時代の「人間の条件」』筑摩書房(2021/11/15刊行)、平成30年度『政治・経済』東京書籍(編集協力者としての参加)、大瀧雅之,加藤晋(編)(2017)『ケインズとその時代を読む:危機の時代の経済学ブックガイド』東京大学出版会、大瀧雅之,宇野重規,加藤晋(編)(2015)『社会科学における善と正義:ロールズ『正義論』を超えて』東京大学出版会、奥野正寛(編):猪野,加藤,川森,山口,矢野(著)『ミクロ経済学演習』東京大学出版会、奥野正寛(編著)『ミクロ経済学』東京大学出版会