『日経研月報』特集より

健康経営とイノベーション

2023年1-2月号

紺野 登 (こんの のぼる)

多摩大学大学院経営情報学研究科 教授

1. ポジティブな健康経営観への転換

健康経営への関心は1990年代の米国でのHealthy Companyブーム(ローゼン1994)で高まったといわれる。背景には、1960年代から従業員の医療費負担が経営を揺るがすほどの問題となったことがある。つまりhealthy workerのために経営が動いたわけである。ただし時代性を考えれば、それはホワイトカラー従業員の身体的「不健康コスト」の削減であり、工業社会において生産性や効率性を管理するうえでの不・負の解消という動機だったようにみえる。
近年、医療の分野でも従来の「病気」中心(医師−患者)モデルから「ヘルスケア」(健康人)モデルへのシフト、さらには脱・医療の動きが起きている。オランダ発の「ポジティヴヘルス」もそうした潮流に沿ったものと考えられる。これは、オランダの家庭医、研究者のマフトルド・ヒューバーが2011年に提唱した健康についての新しい概念で(シャボット2018)、「社会的・身体的・感情的問題に直面したとき適応し、本人主導で管理する能力としての健康」と定義される。この概念の、それまでの健康概念との大きな視点の違いは、受動的な病人や「不」の解消ではなく、社会の一員としての能動的な自己の健康創出という点である。
「ポジティヴヘルス」とは、こうした健康に関する社会的で自発的な概念のひとつであるが、WHO(国連世界保健機関)の定義による健康とは「肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」である。人間に関する用語としては「ヒト(生物学的)」「人(法的)」「人間(人文科学)」、さらに個として生々しく生きる「ひと」などがあるが、この定義は人間を客体的な生命体としての「ヒト」として捉えているように思える。これに対してオランダのヒューバーの「ポジティヴヘルス」では人間を「ひと」と捉えているのではないか。

2. 健康概念の変化の背景

現在の健康経営における健康概念は、ウェルネス(心身ともに絶好の健康状態)やウェルビーイング(健康で幸福で繁栄している状態)など、単に身体に限らない精神面での健康を含んでいることはいうまでもない。それは工業社会のものではない、知識社会・経済の健康経営を志向するものだといえる。
こうした健康経営における健康概念の変化は、工業社会と知識社会・経済の生産手段の差異に発すると思われる。
20世紀の工業社会においては、製造設備や道具、タイプライターや計算機、さらに情報処理機器などの生産手段が労働に不可欠であった。そしてこういった「モノの時代」には、生産手段は資本家(企業)が所有(投資)しており、その操作者としての従業員(労働者)の身体的健康管理が生産性や効率性の向上のための課題だった。それに対して、知識社会・経済においては、生産手段とは脳や感性、経験など、従業員(人間)の全人的なものであり、資本家による所有物ではない(紺野2020)。従って、自ずと「健康経営」は、いかに従業員・組織が創造的に、快適に活動できるか、という心身合一の状態を目指す支援を意味することになる。

3. 健康経営の場の広がり

健康経営の歴史を振り返ってみれば、健康経営の場やそこで求められる健康の意味合いは、従業員個人から職場(組織)へと、そして受動的から能動的へと広がってきたといえる。つまりそこでは、従業員一人ひとりの個人的な健康や幸福感にとどまらず、職場やオフィス(仮想環境を含めた)のウェルビーイング、さらには「我が社」の枠を超えた、都市や社会の健康を構想する必要性を企業に求めることになると考えられる。

~ワークプレイスのウェルビーイング~

まず重要になるのは、健康な、すなわちウェルビーイングを志向する職場・就労環境、ワークプレイス(healthy workplace)である。ここには最近の関心事である「心理的安全性」といった要素も含まれる。
知識社会・経済の経営とはイノベーションの時代の経営ともいえる。そこでは、既存の事業の維持や効率化もさることながら、新たな試みや挑戦、つまり試行錯誤の環境やそれを支える協業の習慣などが要請される。こうした習慣などは属人的で、一朝一夕には獲得できないというイメージがあるが、要は既存の組織文化を云々でなく、「ワークプレイス規範」(ルールではなくマナーに近い)の問題である。たとえば試行錯誤や協業を業務プロセスに埋め込み実践化していくことやそのためのインセンティブ、さらには後述するような新たな経営システムへの移行が意識的に行われる必要がある。
こうしたワークプレイス規範は特にバーチャルとリアルの混在する最近の職場においては重要である。先日ある米国からの出張者と交わした雑談の折に、オンライン会議などで顔を出さず、事実上参加していない“silent quitting”する(黙って抜ける)人々が散見されるのが悩みだと言っていた。これは日本でもみられる現象ではないか。協業の規範の薄い会議は著しく職場やチームの創造性、さらには幸福感を下げる。
働く人々が個として独立した状態で幸福になったりすることはあり得ない。人間は共同体において幸福になる。それは、たとえば同僚からの求めがあれば助け合う、という規範や、デザイン思考的な試行錯誤のプロセスを日常業務に織り込むことからはじまる。それによって創造的なアイデアが生まれやすく、伝わりやすく、実現しやすくなり、結果的に職場やチームとしての幸福感、ウェルビーイングが維持されるのだ。
また、単にストレスがなく安全、という職場は幸福とはいえない。求められるのは健康創成(salutogenic)のための空間である。サルトジェネシス(健康創成論salutogenesis)はギリシャ語の、 salus(健康)+ genesis(起源)の合成語である。これは元来「患者固有の資源を見出して活性化していく」という全人的医療の柱となる考え方である。この概念を提唱したアントノフスキーは、全ての人々が強いストレスに対して健康面マイナスになる訳ではないと主張した。一部の人々は、ネガティブなストレスに晒され続けていても健康を維持するという(アントノフスキー 2001)。つまり緊張やストレスが創造活動には必要であり、それを支える心理的安全性などが補完し合うことになるのではないか。
単に心理的に安全な場を提供するだけではない。従業員や一緒に働く人々が、健全な衝突や討議とともに相互に楽しむ、という創造的空間である。以前から、ストレスの高い職場である米国のスタートアップ企業のオフィスなどでは遊びの空間が設けられていることが知られている。意図的な健康形成、建設的な衝突も可能で、かつ遊びのあるワークプレイスのための空間が、実は健康経営には要請される。

4. イノベーションから見た健康経営

ここまで、健康経営の概念が、工業社会から知識社会・経済への変化を背景に広がってきたことや、健康経営が展開される場が個人だけでなくワークプレイスにも広がってきていることを見てきた。ここで、知識社会・経済においては、イノベーションは以前にも増して強く求められることから、イノベーションの側から見た健康経営や健康概念について述べてみたい。
まず、イノベーションのそもそもの目的、それはいったいなんのためなのか。イノベーションの概念を提示したシュンペーターは、アントレプレナーによる破壊と創造によって経済が循環的に発展していくという資本主義のモデルを提示した。ただし、そこには必ずしも社会的な共通善のようなものが想定されていたわけではなかった。
一方、時代は下るが、同じオーストリア経済学派のイスラエル・カーズナーは、アントレプレナーは破壊と創造を目指すのでなく、安定した市場条件を作り出すために、企業家的警戒心によって破壊的な条件を体系的に置き換えていくとした(カーズナー 1985年)。つまり市場活動を通じて新たな知識を獲得し、それに基づき修正を重ねていくイノベーションによって、市場に均衡化がもたらされる。このアプローチはより社会的・現代的だといえる。
21世紀の今、地球環境の大変動(人新世などと呼ばれるような)や社会的経済的構造的変化の時代において、イノベーションは究極には持続性(サステナビリティ)、そこでの人々や社会の幸福を目指すものだといえる。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、人間が人生において究極に目指すのは幸福であり、そのためには健康であることが重要として、たとえば薬や医療は幸福のために健康を保つものだと考えた。
健康経営もまた、究極には幸福を目的とするためのイノベーションにとって不可欠な「薬や医療」のようなものだといえる。
いうまでもなく、イノベーションとは単に失敗を恐れない挑戦などではなく、目的と現実のギャップを埋めていく、不断の試行錯誤の活動プロセスである。そこでは現実をありのままに見、あるべき高邁な目的を構想する能力が問われる。こうした極めて人間的な能力(論理分析や効率性ではない)が求められるが、こうした経営精神を裏打ちするのが健康経営の役割ではないだろうか。

~人的資本を引き出す目的の重要性~

ここでイノベーションにとって重要な「目的」(purpose)という問題に触れたい。最近とみにパーパスブランディングや目的に基づく経営、といった概念が浸透している。しかし、単に目的を掲げるのでは、それらは創出されない。まず、自社の論理だけに依存せずに、地球環境や社会、顧客、社員にとって魅力的な「善い」(goodな)目的を創出しなければならない。我が社は◯◯を目指す、といった目的は、顧客にとってはどうでもいいことのように映る。
その目的が自社のビジネスモデルや新たな事業創出、より具体的にはイノベーションのプロジェクトマネジメントにおいて価値を生み出す活動に繋がっている必要がある(紺野他 2013)。
実は目的はひとつでなく、いくつかの階層があり(小目的、中目的、大目的)これらが組織化、綜合されていく「目的のマネジメント」が有効である。これを筆者らは「目的工学」として提唱してきた。
最近、人的資本(human capital)の概念があらためて注目されているが、人的資本のみに注目するのではなく、これからの時代の経営システムの一部として捉えるべきことはいうまでもない。そこで目的が重要になる。
人的資本については、すでにヒューマンキャピタル・レポーティングに関する国際ガイドライン規格が発行されている(ISO 30414 2018年)が、近年、従来のISO9001のような品質管理的な観点ではなく、ナレッジ・マネジメントシステム(ISO 30401要求規格 2018年)、イノベーション・マネジメントシステム(ISO56002 ガイドライン規格 2019年)の発行などが相次いでいる(紺野2020)。これらを併せてみれば、人的資本のマネジメントは知識社会・経済の経営システムの根幹であり、従来とは大きく変わっていることが確認できる。

従来、人的資本の経済的インパクトは小さいとされてきたか、曖昧だったが、米国証券取引委員会は役員報酬と業績の相関表を公表するよう企業に求めはじめた。初期の調査で人間力(人、組織、リーダーシップ、人材機能の管理能力)がキャッシュフロー、無形価値、従業員の生産性、社会的市民権を説明することが明らかになっている(Wall Street Journal 2022年9月6日)。要は従来の労働集約型の「モノの経営」の時代から、知識集約型の知の経営の時代への変化であり、そのなかのひとつの鍵となる構成要素(あるいはレイヤー)が人的資本であろう。それはいわばシステムのアップデートに準えられるだろう。
ただし、こういった経営システムは、従来の経営システムに木に竹を接ぐようなものではなく、また単なる器や形式的な仕組みをつくればいいというものではない。とくにイノベーション経営において問われるのは、そのシステムがどのような意図や目的によって活用されるかである。
イノベーションの主体として不可欠な人的資本の力を引き出すには、観点を変える必要がある。それは、「人的資本(A)を高めるとイノベーション(B)が生まれる」という論理ではなく、「イノベーション(B)の目的や場を創出することによって潜在的な人的資本(A)の力が引き出される」という逆転である。単純なことだが、何のためのイノベーションかが皆にとって明確になれば、組織の力は引き出される。こうした新たな経営システムの一部に健康経営が含まれることになるだろう。

5. さいごに:都市や社会の健康経営

さて、3. で健康経営は都市や社会のレベルまで広がるものだと述べた。それはどういう意味か。健康経営が広がった世界・社会とは、新たな社会への転換を意味する。
健康経営は企業が自社だけの社員を対象に行うものではない。それは工業社会型の閉じられた発想だ。労働力の流動性が高まり、従業員はまず社会の成員であるし、兼業や副業など、企業を企業という境界線の内部で考えることができなくなっている。新たな価値を生み出すには、外部との共振、外部の知の取り入れ(買収なども含む)、新たなプロセスを遂行する経営システムの再構築などの努力を伴わなければならない。いずれの場合でも、外部の視点や資産の社会的共有、共創が不可欠である。
人的資本もそうだが、それは一企業の資源というより、社会や地域のレベルでの広い社会経済的な生態系の要素でもある。企業は自社の範囲のなかだけで経営を行う時代ではない。オープンイノベーションやエコシステムなどの概念が注目される背景には、自社を都市や社会の一部として位置づけていく経営環境の変化がある。uberやuber eats、airbnbなどユニコーンの多くは「都市型スタートアップ」が多い。つまり都市がイノベーションの起点であり経済のエンジンだといえる。
従って健康経営は都市や社会のレベルで考える必要がある。たとえば従来のオフィスというより、パブリックスペースと融合したオフィス、リビングラボのような実験的空間など、さまざまな場を支える健康経営が求められる。そこでは文化資本、さらには精神的資本としての人的資本への投資が問われるだろう。これはより短い労働時間でより豊かな意味や知識を生み出し、より多くの価値を持続的に実現することにつながるとともに、イノベーション本来の目的である、そこに住み働く人々の幸福やウェルビーイングにもつながるだろう。

参考文献

・アントノフスキー, A.  (2001),『健康の謎を解く―ストレス対処と健康保持のメカニズム』(山崎 喜比古訳) 有信堂高文社.
・シャボット あかね(2018)『オランダ発ポジティヴヘルス地域包括ケアの未来を拓く』日本評論社.
・カーズナー, I.(1985)『競争と企業家精神―ベンチャーの経済理論』(江田 三喜男訳)千倉書房.
・紺野登(2020)『イノベーション全書』東洋経済新報社.
・紺野登、目的工学研究所(2013)『利益や売上げばかり考える人は、なぜ失敗してしまうのか(目的工学)』(ダイヤモンド社).
・ローゼン, R.H.(1994)『ヘルシー・カンパニー―人的資源の活用とストレス管理』(宗像 恒次訳)産能大学出版部.

著者プロフィール

紺野 登 (こんの のぼる)

多摩大学大学院経営情報学研究科 教授

多摩大学大学院教授(知識経営論)。博士(経営情報学)。慶應義塾大学大学院SDM研究科特別招聘教授。エコシスラボ代表、一般社団法人Japan Innovation Network(JIN) chairperson 理事、Future Center Alliance Japan(FCAJ)代表理事。
著書に『ビジネスのためのデザイン思考』、『知識創造経営のプリンシプル』、『利益や売上げばかり考える人は、なぜ失敗してしまうのか(目的工学)』、『構想力の方法論』などがある。