『日経研月報』特集より

地域創生と鉄道

2023年6-7月号

藻谷 浩介 (もたに こうすけ)

株式会社日本総合研究所調査部 主席研究員

1. はじめに:「宇宙人は納得するか?」

日々続々と現れる、さまざまな社会課題をどう受け止め、どう対処するか。筆者が常に自問するのは、「その現実認識と対処策を説明したら、『宇宙人は納得するか?』」ということだ。
「宇宙人」というのは、もちろんたとえだが、「当方の言語は理解するが、人の世の先入観やイデオロギーからは自由で、利害得失を完全に客観的に把握できる存在」、であるとご認識されたい。
そうした宇宙人の正反対が、最近話題のChat GPTに代表される、「テキスト生成AI(人工知能)」だろう。このAIは、誰かが書いてネットに上げたテキスト情報を収集し、多数決に沿って要約する。そのため生成される文章は、多数意見を素直に信じる人たちにとっては、たいへん納得できる中身になる。だが多くの人がそう言っている話が、客観的に正しいとはまったく限らない。仮にこのAIが中世欧州にあれば、「地球は平面」だし、「感染症の原因は悪魔」と答えただろう。
ということで、人間と先入観を共有せず、完全に客観的に考えることのできる「宇宙人」に、テキスト生成AIから出た文章を見せても、中身に納得することは少ないだろう。「人間というのは、そのように考えているのか」と、人の主観を理解するのに役立ちはするだろうけれども。
さてここでようやく本題に入るが、「赤字ローカル鉄道は廃止すべきだ」という議論を読んだら、宇宙人は納得するだろうか。「赤字ローカル鉄道の廃止に反対する意見は、要するに好き嫌いやノスタルジーといった、感情に囚われているだけだ」という見方に、宇宙人は同意するだろうか。
宇宙人は同意しないだろう。それどころか、指摘してくれるだろう。「赤字というなら、ほぼすべての交通インフラ、つまり一般道路や無料高速道路も、港湾施設も、空港滑走路も赤字ですよ。自家用車の利用も、所有者にとっては金銭面での収益なくコストだけを生む行為、つまり赤字ですよね。だから、どの交通インフラをどれくらい残して使うのかという判断の基準は、赤字か黒字かではないでしょう。問題は、税金投入額に比しての、社会的効果の大小ではないのですか」と。
宇宙人から見れば、高速道路を「いずれ無料化する」と唱えて建設してきた日本政府の姿勢も、「いつまでたっても高速道路が無料にならないじゃないか」と怒る人の頭の中身も、理解できないことだろう。道路は、完成後にも維持管理が必要な存在であり、その費用は税金で賄われているからだ。そこに気付かず、鉄道の話の際にだけ「税金の投入はけしからん」と言い出すというのは、テキスト生成AIであれば起こりうる話だが、そこに理屈は通っていない。
ということで以下では、宇宙人も納得してくれそうな客観性を目指して、言い換えれば日本社会になんとなく蔓延する思い込みを極力排して、赤字ローカル鉄道の存在が地域創生にいかなる意義を持つかを論じよう。

2. 交通インフラは赤字が常態

JR各社の赤字ローカル線について、国土交通省の有識者検討会が昨年、「存続すべきか、沿線自治体とJRでよく話し合え」と提言した。さっそく報道やネットでのコメントなどでは、「100円稼ぐのに〇万〇千円かかるような赤字線は廃止せよ」という声が高まった。だが、この話を宇宙人が読めば、即座に2つの疑問を口にするだろう。
答申への疑問は、「話し合う利害関係者は、自治体と鉄道事業者だけで、国は入らないのですか? 他の交通インフラ、たとえば道路、港湾、滑走路では、国が深く関与しているのに」ということだ。
報道やコメントへの疑問は、「100円稼ぐのに費用が幾らかかるか、というのは基準としてふさわしいのですか?」ということになるだろう。「東京と大阪を結ぶ国道1号線は、東京の環状七号線は、あるいは郊外団地の片隅にある、住民のごくごく一部しか利用しない街路は、100円稼ぐのに何円かかっているのでしょうか。そもそも100円どころか1円も稼いでいないですよね。鉄道は少しは稼ぎがあるだけでも、ましかもしれないのでは」。
さらに宇宙人ならこうも指摘するのではないか。「100円稼ぐのに幾らかかるのかという基準は、民間にとっても公共体にとってもずれていませんか。民間企業、ましてや上場企業であれば、100円稼ぐのに101円の費用でも、事業維持は正解ではないかもしれない。他方で100円稼ぐのに1万円の費用でも、赤字の絶対額が小さいのであれば、自治体としては税金で負担可能かもしれない」。
このように宇宙人に問われれば、気付いてくださる方もおられるのではないか。交通に限らずインフラというものは、世界のどんな国においても共通で、何らかの形で税金を投入しない限り、普通は黒字になるはずがない存在なのだと。典型が上下水道で、徴収された料金で黒字になることはないが、廃止はされない。ごみ焼却場や火葬場、公共ホールやスタジアム、病院、学校、保育園、これらも全部同じだ。
交通インフラの場合も、基幹を成すのは日本でも世界でも一般道路だが、これはどの国でもすべて、「赤字垂れ流し」で、つまり税金で造られ維持されている。道路だけでなく港湾施設も、空港の滑走路も、税金で建設されている。一般道路の整備費用まで払えと言われれば、バス会社は成り立たない。滑走路まで自前で建設させられるなら、航空会社は消滅する。
そんな中でどうして日本では、鉄道だけが「赤字なら廃止」と言われるのか。「国道一号を廃止せよ」「環状七号を廃止せよ」とは言わないのは、つまり国民がこれらを赤字でも必要だと認めているからだろう。だが「郊外団地の片隅の、ほとんど誰も使わない街路を廃止せよ」という議論が、なぜ起きないのか。そもそも、どんな赤字ローカル線よりも利用の少ない道路は、それこそ全国に何十万㎞も存在しているというのに。
このような議論に対し、財務省の職員から以下のような「反論」を聞いたことがある。「道路は誰でも使うが、鉄道は一部の者しか使わない。だから道路には税金を投入できるが、鉄道は受益者負担にするのが筋だ」と。しかし宇宙人が聞けば、即座にこう聞いてくるだろう。「空港も旅客用の港湾施設も、それぞれ国民の一部しか使わないのではないですか」と。「国立大学の学生は国民の1%もいませんが、それではキャンパスの維持費や人件費に国費は入れるべきではないのですかね」と、宇宙人に問われれば、この財務省職員は何と答えるのだろう。
どの交通インフラをどれくらい残して使うのかという判断の基準は、赤字か黒字かではない。道路でも鉄道でも同じで判断基準は、「税金投入額に比しての、社会的効果の大小」であるべきだ。

3. 黒字鉄道を支える日本の高密度

しかるに現実の日本では「道路は赤字で当たり前なのに、鉄道は赤字ではいけない」という意識が、社会の隅々に浸透している。さらには、黒字路線を持つ民間企業(JR)に赤字路線の維持を押し付けるという、よく考えれば資本主義的にも社会主義的にも妙ちきりんな方策が、暗黙の裡に取られて来た。いずれも日本独自の、ガラパゴスそのものの発想だ。
これらのガラパゴスの論理が成り立ってきたのには、理由がある。多くの日本人が気付いていない日本の特質の一つなのだが、可住地人口密度が高いのだ。山地を含む面積で割った「人口密度」で見ても日本の数値は高いが、国土の3分の2が山林であるだけに、山地を除いた面積で割る「可住地人口密度」は1千人/㎢を超えている。火山と海流の妙で、地味が豊かで降水量が多く、植生回復力が極めて高いことが、その根底にある。主要国でこの数字が日本を上回るのは韓国だけだ。
欧州で一番可住地人口密度が高いのは、都市国家を除けばオランダだが(500人台後半)、日本の都道府県ではこれは島根や富山、新潟の水準だ。欧州最大の人口を持つドイツだと300人台後半で、日本では都道府県45・46位の岩手・秋田と同等である。フランスは300人とさらに少なく、英国になれば150人台と北海道の6割だ。米国となれば60人と、さらに低い。そして世界の国々の圧倒的多数は、米国同様に100人未満である。
そのようなことだとはつゆ知らぬ日本人の感じる、「賑わい」と「寂しさ」の境界線や、「都会」と「田舎」の境界線は、世界標準に比べて極端に高い方に寄ってしまっている。世界的には明らかに「過密」な日本の大都市部の密度を「普通」と感じ、世界であれば「適疎」、いや「適密」とされるだろう場所に「過疎」のレッテルを貼ってしまっているのが日本人だ。そんな日本では、「過疎」とされる地域にも普通に24時間営業のコンビニがあるが、それは可住地人口密度が諸外国の都市部並みに高いことが大きな理由だ。世界の本当の過疎地域には、コンビニどころか商店もほとんど存在しない。
そんな日本の大都市部では、駅から徒歩圏の人口や事業所の集積密度が極めて高いがために、「黒字の鉄道」というガラパゴスのような存在が、モータリゼーションの後でも成り立ってきた。それどころか、東海道新幹線や山手線のように、事業としても黒字でかつ絶大な社会的効果をもたらしている、「鉄道界の大谷翔平」のような存在もある。だがそうした存在を見て、他の鉄道路線にも一律黒字を求めるというのは、「二刀流でなければプロ野球選手ではない」と言い出すようなもので、世界的にはナンセンスな考えだ。ましてや、黒字路線を持つ鉄道会社に赤字路線の運営もおっかぶせるというのは、「大谷がいるのだから他の選手は負んぶに抱っこすればいい」というような話で、それでは球団経営は成り立たない。
ということで、「旅客鉄道は黒字であるべきだ」という認識の存在しない欧米では、「鉄道は赤字なのが当たり前」だし、「赤字でも必要な路線はあるので、それは税金で維持する」のが常識となっている。これは日本人が、「一般道路は黒字であるべきだ」と思わず、税金での維持整備を当然と思っているのと同じだ。JHの高速道路は全体として黒字だが、だからといって一般道路の維持管理までJHにやらせようとは考えないだろう。鉄道であっても、本来は同じだ。JHであれば高速道路を、JRであれば新幹線などの黒字路線を、黒字の分だけ値下げさせる方が、社会経済的に見て効果は大きいはずだ。
なおそれでも、「赤字でも必要な路線」という表現に、疑問を感じる人もいるかもしれない。ガラパゴス・日本では、「鉄道の要・不要は、黒字か赤字かで判定する」という発想が、深く考えられもせずに受け入れられてきたからだ。だがたとえば、JR北海道には黒字の路線が1路線もない。しかし人口300万人近い札幌都市圏での通勤通学や、新千歳空港から札幌市などへの旅行者・出張者の移動は、札幌駅から4方向に走るJRの輸送に深く負っている。JRがなければ、渋滞が常態化し、冬場を中心に交通事故も急増するだろう。北広島市に新設された球場が、最寄り駅の開設が遅れているがゆえにアクセス時間がかかりすぎ、集客に苦戦しているというニュースも、お聞き及びの人が多いのではないか。「赤字でも必要な路線」は、欧米だけでなく日本にも、当たり前に存在するのだ。
それでは、必要な路線とそうでない路線を、黒字・赤字とは違うどのような指標で判定するのか。繰り返すがそれは、「税金投入額に比しての、社会的効果の大小」だ。

4. まずは「上下分離」で揮発油税投入を

「税金投入額に比しての、社会的効果の大小」を考えるに際しては、まず一般道路と鉄道を、イコールフッティングで(条件をそろえて)比較する必要がある。そのためにも重要なのが、「上下分離」という考え方だ。鉄道施設のうち、路盤や架線、信号システムなどは、道路(や街灯や信号など)とイコールと考え、その維持更新費用は、道路と同じく公共体が負担する、というものである。PFIのように民間企業に維持整備を委託することも十分ありえるわけだが、その場合でも路盤の維持について何らかの税負担は生じる。
その上で列車の運行は、バス同様に民間企業が行う。つまり一般道、鉄道路盤、滑走路などは公共が用意し、その上で乗用車、バス、鉄道、航空を競争させるわけだ。それでも、客数が見合わずに鉄道の運行が不採算となることは十分にありうるが、それはバスや航空路線でも同じことで、その上で運行部分にも税金を投入してサービスを維持するのか、せずに自家用車利用に任せるのか、社会的効果を元に政策判断がなされることになる。しかし可住地人口密度の高い日本の場合、現状は赤字でも上下分離で黒字化する路線は、相当多数存在するのではないか。過去に廃線になった路線にも、そのような路線は多々あった可能性が高い。
さて欧米では、旅客鉄道はそのような上下分離で運行されているのが通例である。英国などの場合、一度は日本の国鉄の民営化に倣って路盤まで民間企業が維持管理するシステムを採用したものの、その後に、路盤は公共体が管理する上下分離のシステムに戻した。日本でも、自治体の負担による民鉄の鉄道上下分離の実例は、北陸(富山ライトレール、えちぜん鉄道、万葉線)や関東(上毛電鉄)、東海(三岐鉄道北勢線、養老鉄道)などに、幾つも存在する。最近ではJR東日本の閑散ローカル線である只見線が、福島県などの地元自治体の資金拠出により、上下分離で災害復旧した。
しかし日本には、国が国税を投じた上下分離の例は、存在していない。実際には災害復旧の際に、幹線道路の復旧資金を並行する鉄道の復旧にも使っている例は、九州などにあるのだが、公にはそのようには語られていない。一般道路は、国税である揮発油税を財源とし、国と都道府県と市町村が分担した公共投資で維持されているのだから、鉄道の路盤も、同じく揮発油税を財源とした公共投資で維持されるのが筋ではないのだろうか。CO2削減も叫ばれる折、揮発油税を鉄道の路盤の維持補修にも回すという発想は、SDGsなどにも資する、まったく問題ない方向性であるように思えるのだが。
さらにいえば、道路の総延長と鉄道の総延長では、比較にならないほど後者の方が短い。しかも鉄道は、路面の面積が小さい。複線で2車線道路、単線なら1車線道路にしか該当せず、道路の路面全体を舗装し直すのに比べれば、保守の手間や費用は軽微で済むのではないか。ということで、揮発油税の数%を回すだけでも維持補修は可能と思われる。実際の工事は、JRなど運行会社に、PFIのような形で委託するのが効率的だろう。
「国交省道路局は、己の領分たる揮発油税を、鉄道には回したがらない」という憶測も聞く。だが実際には小泉内閣以降、揮発油税は一部が福祉財源にも回されてしまっている。おかしな話で、この税はまずは、鉄道を含む交通分野に使われるべきだ。

5. 上下分離後の維持・廃止の検討 ①国策的観点

さて、以上のように「上下分離」を行ったとして、それでも鉄道の運行が成り立たないほど旅客数の少ないケースのあることは、すでに述べたとおりだ。運行経費としては車両費もあるが、圧倒的に大きいのは人件費で、これは一般道路を走るバスでも同じである。だがバスもそうだが鉄道も、運行が赤字なら即廃止とすべきではない。赤字補てんに必要な補助金額と社会的効果を、自家用車やバスなどと比較して、残すか廃止するのかを検討するというのが順序となる。
そこで、仮に上下分離を施したとしても赤字の路線の「社会的効果」とは何か、ということになるわけだが、これには地域住民の民生的な観点からのものと、国策的な観点からのものと、何種類かが存在するので、区分して考察することが必要となるだろう。
先に、相対的にマイナーな論点である、国策的な観点を挙げてしまおう。主要なものは、①自家用車から公共交通への利用者の誘導、②貨物輸送の、トラックから鉄道への移行促進(モーダルシフト)、③経路のリダンダンシー確保、④インバウンド対応、⑤ロシア対応だ。
①は、自家用車依存社会の社会的費用の大きさに鑑み、鉄道やバスといった公共交通への利用者のシフトを少しでも進めることが、国策上重要ではないかという観点だ。自家用車依存の社会的費用としては、交通事故の人的・物的損害、CO2排出、運転できない者(交通弱者)の不利などに加え、自家用車購入・維持費用や運転時間の機会費用(運転時は、公共交通利用時に比べ、たとえばPCやスマホが利用できず、睡眠もできないなど)という、現状では個人が意識せずに負担しているコストもある。
他方で自家用車利用には、そのような不便を上回る個人的な便益(即時性、ドアトゥドアの利便性など)もあるわけで、利用者が一斉に公共交通利用にシフトするということは考えられない。むしろ自家用車利用者は、車社会のさまざまなデメリットを認識しつつも、自動運転の実現など公共交通以外の解決手段に期待している。だが複雑怪奇な形状の道路での自動運転は、簡単には実現しないし、実現する際には車両価格の上昇や、目的地への到達速度の低下などの副作用も起きるだろう。そもそも自動運転をするには、経路が定まっていて他の交通機関が乗り入れて来ない鉄道の方がはるかに適しているし、新交通システムや地下鉄では国内外に実例がある。
ということで少なくとも、生活者に対し自家用車と公共交通と、どちらも選択できる余地を残しておくことは重要であり、鉄道廃止を含む公共交通のサービス縮小によって、車利用「しか」選択できない地域を拡大させていくことは社会的に望ましくない。ただしこの議論では鉄道とバスは相互代替性のあるもので、つまり鉄道でなくてもバスサービスがあればいいということになる。
②は多年言われてきたが、その間にもJR貨物の守備範囲は年々縮小してきた。しかし世界的なCO2排出抑制の要請に加え、生産年齢人口の減少に伴うドライバーの人手不足の深刻化もあり、燃料代の長期的な高騰もあり、民間企業であるJR貨物だけの努力に任せずに国策的に推進し直すべきだとの機運は、逆に年々高まっている。盲腸線や、貨物輸送の経路としての需要がない線は対象外だが、国土のネットワークの一部を形成していながら実態はローカル運行にとどまっている線において、今後はもっと真剣に実現させていくべき課題だ。
③の経路のリダンダンシー確保とは、地震などの災害で幹線が麻痺した際に、ローカル線のネットワークがバックアップ効果を発揮する場合があるということだ。たとえば阪神淡路震災の際には、貨物の幹線でもある山陽本線が何か月か不通になったが、舞鶴線や山陰本線などを使った輸送が行われた。東日本大震災の後には、新潟と郡山を結ぶ磐越西線が貨物輸送路として活用された。しかし多くのローカル線はインフラとして劣化が進んでおり、貨物の大量輸送に適さなくなってきている。②のモーダルシフトを真剣に進めるのであれば、従前以上に、ネットワークの維持強化によるバックアップ動線の確保が重要になる。
④のインバウンド対応とは、「鉄道に乗ること自体が、多くの国では観光資源と認知されている」ことに由来する論点だ。日本人は「観光地」まで速く移動したがる傾向が強いので、新幹線や高速道路が観光客輸送の花形となっている。だがこれらの交通手段は、トンネルや防音壁の中を直線的に貫くことが多いので、移動の際に地形や周囲の自然をじっくり楽しむ機会は得にくい。これに対し世界では、移動の過程そのものを観光資源として活かすスタイルが普通に存在する。クルーズ船しかり、大陸横断列車しかり、観光保存鉄道しかり、時間を贅沢にかけ、時に停まり、景色をゆっくりと楽しむことが魅力となっている。
そのような目で日本の鉄道を見直してみると、戦前に建設された在来線は自然の地形に沿って川沿いや海沿いを蛇行しており、美しい沿線景観を持つ線が多い。これまでに国内の鉄道全線に乗車し、海外でも40ヶ国近くで鉄道を利用して来た筆者は、自信を持って断言したいのだが、日本は沿線の景観に優れた鉄道路線を、世界でも最も多く持つ国だ。前述のJR東日本只見線が災害復旧されたのも、川霧の多い只見川沿いを走る幻想的な景色が、日本人よりもインバウンド客に多く評価されたことが大きな理由だった。その価値をわからないまま、日本人だけの判断で廃止を決めてしまうことは、国策上たいへんに惜しい。
逆にいえば、せっかく存在していた鉄道が廃止されてしまったために、優れた景観を持つにもかかわらずインバウンド来訪の波が及んでいない地域もあるのは残念だ。特に北海道には、旧天北線、羽幌線、名寄線、標津線、池北線、士幌線、広尾線、日高線、胆振線など、残っていたら高く評価されたであろう例がいくつもある。前世紀のうちに廃止されたものは仕方がないとしても、つい最近の廃止事例である日高線などについては、維持を北海道だけの判断に任せず、インバウンド振興という国策的な観点から対処を考えるべきだった。
⑤のロシア対応というのは、以上に比してさらに特殊な観点だが、北海道東北部のJR線の存否を北海道だけの負担と判断で決めていいのか、という問いかけだ。稚内や根室への鉄路の廃止が、対岸のロシアにどういうサインを与えかねないか、真摯に考えて判断すべきということである。対ロシアの国境地帯である、宗谷海峡や北方領土の真向かいの地域をないがしろにして、何の「国土防衛」なのだろうか。こうした疑問が「保守」の中から出てこないところに、抽象的に「国土」を論じている人たちの地理感覚の欠如を感じざるを得ない。

6. 上下分離でも赤字の鉄道の存在意義 ②民生的観点

さて、最後に残った重要な論点が、「上下分離をしても赤字で、かつ上記①~⑤のような国策的な存在意義も乏しい路線」をどうするかだ。「それこそ、さっさとバス転換してしまえばいいのでは?」とお感じの方は多いのではないか。
筆者もかつては、深く考えることなくそう思っていた。だが、2001年に考えを改めた。同年に富山県で行われた、(現)万葉線の存否を巡る議論を見聞し、高岡短期大学(当時)の(故)蝋山学長が展開された論旨に、納得したからだ。宇宙人でも納得しただろう。
富山県高岡市と射水市で現在も運行を続ける万葉線の概要については、ネットほかの諸資料を参考にされたい。ここでは、蝋山氏が語り、両市の市当局や市議会などを納得させた理を、筆者の言葉で再現する。その立論に沿ったこの線の3セク化と運航継続が、その後の富山ライトレール(旧JR西日本富山港線)やえちぜん鉄道の設立・運行存続につながった。
蝋山氏の指摘を要約すれば以下となる。
① 運行赤字の路線でも、高校生や高齢者など現に利用者が多数いる以上、廃止するのであれば、代行バスの運行が必要となる。
② そこで鉄道存続と代行バス運行とを、費用面で比較すれば、一番大きな人件費は差がなく、車両代(補修費含む)も耐用年数で割ればさほどの違いがない。残る違いは路盤整備だけだが、これは道路整備と同じで税金で行うべきだと考えても、さほど無理はない(=つまりは上下分離を行うべしとの指摘)。
③ 他方で費用だけでなく、同じ税金を投じた場合に生じる社会的便益に目を転じてみれば、鉄道には、路線がわかりやすいので域外から公共交通で来訪した観光客の利用が図られやすい、それ自体が観光資源となる可能性がある、道路が渋滞の際にも定時運行できるなど、バス以上に利用者の増える可能性があり、つまり税金投入の費用対効果が高い。
当時この議論を聞いた筆者は、まず①をよく理解していなかったことを反省したし、②の「バスと鉄道で人件費には相違がない」という点も目からウロコだった。だが一番感銘したのは③の、同じ税金を投入するのであれば効果が大きい(利用者が増える)方がいい、という指摘だった。実際にも、万葉線(やそれに続いた富山ライトレール、えちぜん鉄道)では、3セク化に際し出資した地元民がマイレール意識を持ったことで、利用者数が底上げされるという嬉しい効果が生じた。また、その後20年以上を経てインバウンド旅行者が増える中、使い方の分かりやすい鉄道を残したことが、彼らの誘客にも役立っている。蝋山氏という優れた学殖の先見の明に、年を経るにつれ感嘆するばかりだ。
かくして筆者は、20年以上前に宗旨替えして、赤字ローカル線は原則存続すべしと唱えるようになって現在に至る。しかし現場の鉄道関係者であっても、多くの場合、このような考えには賛同してくれない。ある鉄道経営者の方が、以下のように語っておられたのは、筆者の記憶に強く残っている。「そうはおっしゃっても、鉄道は大量輸送に適したものなので、あまりに客数の少ない路線を維持するというのは合理的ではないのでは」。
「大量輸送の需要がなくては、鉄道の出番はない」というのは本当か。それ以降、ずっと考えを重ねているのだが、現時点での筆者の考えは、「鉄道の特性は大量輸送だけではなく、観光需要への対応、域外からの利用者にとっての(バスに比しての)わかりやすさなどそれ以外のメリットもある。従って、輸送量に関わらず維持しなくてはならないようなローカル交通の手段として、バスとの比較考量で鉄道の方を選ぶべき場合もある。ただしこれは既存路線がある場合で、新設をするような費用対効果はもちろん認められない」ということだ。
むろん潜在的な輸送力を発揮できるよう、なるべく輸送量を増やす努力は重要であり、そのためには特に集客力のある郊外型施設(SC、ロードサイド商業集積、高校や大学、病院)になるべく近接しての駅の新設、運航頻度の確保などの努力を、もっと行うべき場合は多い。

7. おわりに

以上の論旨を再度要約しよう。
① 可住地人口密度の非常に高い日本では、国内では「過疎」とされる地域であっても国際的な観点で考えれば、鉄道を運行できる条件を備えている場合が多い。
② (既存の)鉄道と道路はイコールフッティングで取り扱うべきであり、上下分離を行い、路盤部分の整備には揮発油税を投入することを原則とすべきだ。それで大幅な黒字が出る場合には、運賃を値下げし、さらなる利用を促進するのが良い。
③ 上下分離を行っても、運行部分が赤字化する既存鉄道の存続の当否は、投入する税金と得られる社会的利益の比較考量で決する。
④ 鉄道存続の社会的利益としては、5つの国策的観点に加え、バス転換した場合との、利用者数の違いをも考察すべきである。
実際に過去の廃線事例の今を探れば、鉄道からの撤退が次はバスの撤退、やがて地域からの撤退につながっていくという現実が見えてくる。人口が過密でどうしても出生率が低くなる大都市への若者集中を加速させれば、やがて来るのは日本全体の消滅だ。そういう流れを食い止めるのか、食い止めないのか、話は鉄道の存否を越えて、国土利用はどうあるべきかという哲学にもつながってくる。
「長引く景気低迷」とか、「日本の国際協力は地に落ちた」とかいう決まり文句が、十年一日のごとく口にされる日本。しかし上場株式の時価総額は、バブル期を上回る700兆円台だ。日本の年間輸出額は80兆円超、個人金融資産は2000兆円弱、国の一般会計税収は60兆円と、いずれも史上最高水準である。そんな中でさらに借金を積み増し、政府は史上最高規模の歳出を続けている。それ自体いかがなものかとは思うが、そんな今が、明治以来営々と維持されてきた鉄道網を大きくリストラすべきタイミングなのだろうか。鉄道は、一度廃止すれば二度とは復活できないのだ。
筆者には苦い思い出がある。岐阜県の関市と、県都・岐阜市を結んでいた名古屋鉄道美濃町線が廃止される際に、「鉄道がなくなれば、客は岐阜ではなく名古屋に流れるようになりますよ」と警告したが、岐阜市の商店街関係者は「軌道跡を使って道路を拡幅した方が効果的だ」と、耳を貸さなかった。しかし廃止後に岐阜市では、大型店が2つ閉店し、歩行者数が大きく減った。
永田町や霞が関はもとより、自治体関係者にも、市井の庶民にも、何がボトルネックなのかを発見し改善する、意識・習慣・能力がないのが日本だ。そのため、ガラパゴス化した「日本限定の常識」の中で、惰性で旧弊が続いてしまう。「宇宙人のような客観性をもって判断しなければ」と自覚する人が、一人でも増えることを願うばかりだ。

著者プロフィール

藻谷 浩介 (もたに こうすけ)

株式会社日本総合研究所調査部 主席研究員

株式会社日本総合研究所 主席研究員、株式会社日本政策投資銀行地域調査部 特任顧問(非常勤)、特定非営利活動法人 ComPus地域経営支援ネットワーク 理事長。
山口県生まれの58歳。平成合併前の全3,200市町村、海外118ヶ国を自費で訪問し、地域特性を多面的に把握。地域振興、人口成熟問題、観光振興、コロナ対応などに関し研究・著作・講演を行う。2012年より現職。著書にデフレの正体、里山資本主義(共にKADOKAWA)、世界まちかど地政学Next(文芸春秋)など。近著に日本の進む道~成長とは何だったのか(毎日新聞出版、養老猛司との対談)。