ウェルビーイングと幸福の間 ~哲学からの問いかけ~

2024年4-5月号

荻野 弘之 (おぎの ひろゆき)

上智大学文学部 教授

(本稿は、2023年11月9日に東京で開催された講演会(オンラインWebセミナー)の要旨を事務局にて取りまとめたものである。)
1. 政策課題としての「ウェルビーイング」
2. 幸福の数値・定量化
3. 「幸福とは何か?」という問い-3種の型
4. 「幸福」を表す言葉のさまざま
5. 何が「幸福な生」を構成するか
6. 幸福を考える際のいくつかの座標軸
7. まとめ

1. 政策課題としての「ウェルビーイング」

ウェルビーイングという言葉は、2021年3月26日に閣議決定された「第6期科学技術イノベーション基本計画」の中で明示されました。
「自然科学のみならず人文社会科学も含めた多様な「知」の創造と、「総合知」による現存の社会全体の再設計、さらには、これらを担う人材育成が避けて通れない。」「こうした基本認識の下、我が国が目指すべきSociety5.0の未来社会像を〔中略〕一人ひとりが多様な幸せ(well-being)を実現できる社会とし、その実現に向けた『「総合知による社会変革」と「知・人への投資」の好循環』という科学技術・イノベーション政策の方向性を示した。」
わかりやすいとは言えない文章ですが、はっきりしていることは、幸福はもはや個人の問題ではなく、政策目標に掲げられたということです。そして昨今、社会貢献度の高い企業に関心が集まっていて、大学生の間では就活の関心事に企業の社会貢献度を挙げる学生が増えています。高度経済成長時代は所得の増加が国民の幸福につながることが自明でしたが、現在、所得が600万円を超えると、収入と幸福感は必ずしも相関しないことがわかっています。こうしたなか、イノベーション、グローバル化、社会的再分配等の新たな経済成長策が模索され、かつての成長戦略とは別の道が必要であろうという時代認識なのです。

2. 幸福の数値・定量化

2009年に民主党政権が「コンクリートから人へ」というマニュフェストを掲げ、GNH(国民総幸福)という新しい指標を謳いました。公共事業依存やGNP至上主義からの転換です。1970年代、ブータン国民の幸福度の高さが注目されたことを端緒に、2010年頃から科学の分野でも幸福を研究対象とする傾向が強くなりました。そうなると、幸福をエビデンスベースで考察し、定量化して考えることが必要になってきます。そこで生まれたのが「幸福度」です。この代表格「World Happiness Report2020」では、国内総生産、社会保障制度、健康寿命、選択の自由、他者への寛容、国家への信頼という6つの指標に11の補助指標を加えて数値化し、各国の幸福度を測っています。

3. 「幸福とは何か?」という問い-3種の型

では、幸福は、幸福度によって正確に測定できるのでしょうか。また、幸福度で測られるものは一体何でしょうか。哲学の立場から、3つの問いで考えてみます。
1つ目は、どうすれば幸福になれるかという問いです。資産運用、人間関係、終末期医療といった各人が最も大切にしているものを、いかに増進させるかという実践指南です。
2つ目は、「本当の幸福」を問い直し、常識的に思い込んでいる通俗的な幸福観の変更を迫ることです。お金、社会的地位、名誉、快楽等の現世利益的な幸福観にしがみついている生き方を脱却、あるいは相対化します。このやり方は宗教や文学の得意とするところでしょう。
3つ目は、幸福はどのように考えられてきたのかという思想史研究です。さまざまな考え方の整理にはなりますが、下手をすると、歴史や倫理のお勉強になってしまい、平凡な思想史に陥ってしまうかもしれません。
「幸福とは何か?」と真剣に考えるのは、病気、倒産といった逆境に立たされた時であり、日常生活が座礁し、自明性が喪失したときに発せられる問いではないでしょうか。また、順境の人生を歩んできた人であっても、不幸な状況にある人に共感できなければ、それは不幸かもしれません。

4. 「幸福」を表す言葉のさまざま

日本で「幸福」という言葉が生まれたのは江戸時代です。「幸」というのは、大地の恵みと人間の労働の実りが合わさったもので、「福」は、器腹の豊かな酒樽という意味です。酒樽は宗廟に奉納する祭儀で使用しますので、福にはお裾分けにあずかるという意味合いが含まれています。つまり「幸福」とは、自力と他力の要素が織り合わさった言葉なのです。
日本国憲法第13条に「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあります。幸福は権利であり、さらに追求するものとされています。アメリカの独立宣言では、「われらは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪い難い天賦の諸権利を付与され、その中に生命、自由、及び幸福の追求(pursuit of happiness)の含まれることを信じる。」とあります。18世紀、移民の多かったアメリカでは、幸福は自力で追求するものだったのです。
「君といつまでも」という有名な歌(1965)の歌詞に、「あしたも、素晴らしい、しあわせが来るだろう」という部分があります。ここでのしあわせとは、幸せな気分、つまり幸福感でしょう。
ウェルビーイングの由来は、1947年WHO憲章における健康の定義である「physical, mental, & social well-being」です。ウェルビーイングは元来、健康の定義として使われていましたが、最近では「幸福」に置き換わって使われるようになってきたと考えられます。

5. 何が「幸福な生」を構成するか

次に、幸福な生を構成する要素を考えます。アリストテレスは、人間の三つの基本的な生き方の類型を示しています。手近な快楽に耽る享楽型、人前で活躍する名誉追求型、自分の興味関心に没頭する真理観照型です。現代でもこれは変わらぬ軸だと思います。幸福の内実を規定する三つの基本要素として捉えると、「快楽」、「徳」、「智慧(洞察)」になります。さらにアリストテレスは、「外的善」というものを設定しています。健康、容姿、家柄、財産、名誉、友人・協力者などで、これを欠いては幸福な人生は完成しないとしています。
また、個人では完結しない要素もあります。それは、「愛情」、「偶運」、「信仰」です。人間には、愛情を受けるだけでなく注ぐ対象も必要です。愛され愛する関係がうまく循環しないと幸福は達成されません。また、突発的な災害や事故など制御不可能な要素によって、幸福は損なわれます。幸福とは幸運を意味し、結局、運がいいか悪いかが人生のよしあしを決定しているとみえなくもありません。
さらに、人の欲求を何に向けるべきか、その方向を示してくれるのが信仰です。幸福を説かない宗教はありません。
これらの要素を少しずつ取り入れてブレンドしながら、人は幸福観の尺度を作っているのではないでしょうか。ただ、こうした尺度は、さまざまな経験や学習、環境によって変化します。そして、他人を評価しながら、自分自身の幸福度を位置付けています。他人と切り離して自分を評価することは難しいのです。また各人が異なる幸福度を持つことは、多様性の高い社会ともいえます。逆に同質性の高い社会ほど、人並みを重視するために他人が気になります。日本は同質性の高い社会かもしれません。

6. 幸福を考える際のいくつかの座標軸

①幸福の主観性

幸福とは主観的概念であり、客観的指標で測れるものではありません。そのため、多くは質問紙法が採用されます。ここで大事なポイントは、幸福を定義しないまま質問することです。実質上は「あなたは現在の生活に満足していますか?」という問いの立て方です。幸福度とは、実質的には現在の生活満足度ではないかと思います。しかし、幸福と満足は同じではありません。J.S.ミルは「満足と幸福は異なる」と言っています。高い理想を掲げる人ほど現状に満足できないわけですが、幸福は、自分だけでは完結しない。家族や友人までを含めて一緒に幸福でなければ、自分は幸福だとは言えないからです。また、幸福とは幸福感のことであれば、それは各人で異なります。いわゆる幸不幸を自分で決める、「自足性」の境地が幸福だと考えられます。幸不幸は、当人でしか決めることができないという「一人称特権」があるのです。
ここで2つの疑問が生じます。1つ目に、幸福とは自分が幸福と感じることであるならば、幸福は気分と同じように容易に変化するものと捉えられます。では、幸福な生には安定した状態が不必要なのでしょうか。2つ目に、人は、自分にとって不都合な真実を見たがりませんが、気がつかない幸福があるのかという疑問です。例えば、愚かな指導者が国民に対して現状を見せようとしない、あるいは他国を評価して見ようとしないように、自足的幸福感は無知に由来することが多い。不幸の中に幸福を見出すことを「災害のユートピア」と言います。東日本大震災直後の幸福度調査では、直後は下がったのですが、3ヶ月後には逆に震災前よりも高くなった現象がみられました。当たり前に暮らしてきた自分が実はどんなに恵まれているかに改めて気づいたからともいわれています。
そこで私は「発見」が大事だと考えます。幸福は他人との比較が大きな影響を与えていることは確かであり、アリストテレスは「幸福に生きる」(eudaimonein)と「〔他人を〕幸福だとみなす」(eudaimonizein)の動詞を使い分けています。幸福とは追求する対象ともいえますが、同時に、発見する対象だともいえるでしょう。行為で世界が変わりますが、同時に、新しい認識を獲得することによって、世界を変えることもできるのです。

②能動性/受動性

次に、受動的に考える幸福観と、能動的に考える幸福観について考えます。
アリストテレスは、幸福の定義を「徳に即した魂の現実活動energeia」としています。徳とはその人の持つ優れた美徳や能力のことで、魂とはその人の精神的な面をいいます。つまり、優れた資質を開花させて適材適所で活躍することが幸福であるという考え方です。日本語の「ご活躍」に近いのではないでしょうか。また、自分の好きなことをやれば楽しいので、名誉のみならず快楽を得られることにも繋がります。これが能動的幸福観です。
受動的幸福観は、ストア派の考え方にみることができます。ストア派は幸福を「淀みなき水の流れ」に例えました。老子の言葉である「上善如水」のように、水が上から下に一切の障害なくきれいに流れる、これこそが幸福のイメージです。ここでいう障害とは、欲望や情念といった、心の中にある非合理的要素です。これらが過剰になっても煩わされない状態をapatheia(不動心)と言い、自縄自縛のストレスから解放されて「ご安心」と呼ぶような境地に至るわけです。
「能動的幸福観」と「受動的幸福観」、「ご活躍」と「ご安心」という対極的なものが合わさって、われわれの幸福観は作られているのではないかと思います。

③自力か他力か

次に、自力か他力かを考えます。アリストテレスは「幸福は顕彰や賞賛の対象ではなく、祝福の対象」だと言っています。幸福とは、業績や功労に対して与えられる顕彰や賞賛とは異なる次元にあるものです。例えば「新年おめでとう」という言葉には、一年いろいろあったけれど無事に新年を迎えることができた、何か恵まれたものがあるのではないかと感じる意味合いがあり、言祝ぐわけです。自分ではどうにもならない要素を免れたあり方をどう捉えるのかによって宗教の次元が披かれます。

④価値の問いと意味の問い

20世紀後半から、アメリカで人生の意味を問う哲学が隆盛しました。幸福という概念が、あまりにも主観的に捉えられることの反動だと思います。各人が異なる幸福を考えるのではなく、きちんとした客観的指標を求めたのです。
幸福とは何かという問いは、何のために人は生きているのかという問いと似ていて、それは「生き甲斐」といえるかもしれません。何のために生きているかを考える本として、フランクルの『夜と霧』があります。過酷なアウシュビッツで自分の家族と再会できるのではないかという希望を持ち生き延びようとした人々が、家族は殺されて会える見込みがないと言われた途端に亡くなっていった実態を目の当たりにし、人を生かすものは希望であると言います。
幸福が価値の問いだとすれば、生き甲斐は意味の問いです。生き甲斐が幸福に還元されるという場合もあります。仮に不幸であっても、その人が大きな目標を持ち後の人の大きな希望になるとすれば、不幸であっても意味のある人生として十分あり得るのではないでしょうか。

7. まとめ

幸福度は単なる満足度とは異なります。幸福度の中身について、きちんと吟味することが大切です。また、幸福は人間にとっての最高善としてさまざまな奥行きを持っているため、単線的な指標に押し込められません。さらに、幸福とは幸福感であるという主観的な見方をすることは、一面では正しいのですが、全面的に正しいかというと問題があります。幸福は幸福を感じることであるという主観的な見方を立ち止まって反省することが必要です。

〈質疑応答〉

質問A ウェルビーイングという言葉は、ブームが過ぎたあとの社会で、どのように残っていくと思われますか。
荻野 幸福という言葉が使われなくなったのは手垢にまみれてきたからだと思いますが、幸福とは何かと考えることは、2400年前から変わっていません。問いはずっと続くけれど、道具立てが変わるということです。ウェルビーイングに代わる別の言葉が出てきたとしても、幸福に対する基本的な問いは変わらないでしょう。
質問B 組織の中で各人が安心して活躍するために、組織が環境整備などでできる工夫はありますか。
荻野 企業経営においてウェルビーイングを問題にする場合、職場を快適にし、社員が活き活きと活躍できる場を準備することが、企業におけるウェルビーイングだと思います。そのために科学的、技術的手段が用いられることもあるでしょう。こういった取組みは働き方改革にも繋がります。
質問C 金融分野においても、ハピネス・インデックス等ハピネスの定量化に向けたグローバルな動きがみられます。この動きはどのように捉えられますか。
荻野 確かに、インデックスはさまざまな場面で求められてくるでしょう。定量化にはポイントが2つあります。1点目は、定量化しやすいところと、定量化しにくいところ、定量化をしてはいけないところをきちんと切り分けて検討することです。そしてその境を慎重に判断する必要があります。2点目は、インデックスで数値化されたものを100%信じないことです。インデックスを一つの判断材料として、余裕を持った使い方をしていくことが大事でしょう。
質問D 社会の価値観の変化に伴い、幸福の捉え方も違ってくるのではないでしょうか。例えば、個人主義が尊重される時代と共同体的価値観が重視される時代では、その捉え方は全く異なるのではないでしょうか。
荻野 そのとおりです。時代や文化が違えばそうなります。アメリカ人はexcitingという言葉が好きで刺激のあることを大事にしますが、日本語の幸福は、もう少し落ち着いたイメージではないでしょうか。国際比較は難しく、統一した指標で見ると、点数の高低があります。さらに同国内でも、階層や人種によって幸福に対する価値観は分かれます。状況に応じてオリジナルを考え続けなければいけないでしょう。
質問E 「豊かな社会」と表現される豊かさは、個人の幸福の積み上げで生まれるのでしょうか。その場合、豊かな社会を人為的に作ることは可能ですか。
荻野 豊かな社会とはfluent societyという言葉から来ていると思いますが、fluentとは過剰を意味する言葉ですから、不要なものも流れてくる、現代文明の過剰さを示しているのではないでしょうか。過剰を豊かさと訳して幸福と結びつけるのは、出発点で幸福の捉え方をはき違えている可能性があります。今後のわれわれにとって本当に豊かな暮らしとは、「発見」することであり、各々の人生を顧みてどこに一番美しく見える切り口があるのかを発見することを価値の創造として捉えたらいいのではないか、ということを提案したいと思います。

著者プロフィール

荻野 弘之 (おぎの ひろゆき)

上智大学文学部 教授

1957年生まれ、1981年 東京大学文学部哲学科卒業、1985年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退、1985年 東京大学教養学部助手、1988年 東京女子大学文理学部専任講師、91年同助教授、1992年 上智大学文学部哲学科助教授、1999年 上智大学文学部哲学科教授(現在に至る)、2000-2001年 米国カリフォルニア大学バークレイ校客員研究員、2003年 ドイツ・ボン大学欧州統合問題研究所客員教授、2004-2008年 上智大学中世思想研究所長、2008-2009年 英国オクスフォード大学オリエル学寮客員学寮院、2011-2023年 学校法人清泉女子大学理事、2012-2022年 上智大学大学院哲学研究科長
主要著書 『古代ギリシアの知恵とことば』(上下)NHK出版(1997年)、『哲学の原風景』NHK出版(1999年)、『哲学の饗宴-ソクラテス・プラトン・アリストテレス』NHK出版(2003年)、『マルクス・アウレリウス「自省録」-精神の城塞』(シリーズ書物誕生)岩波書店(2009年)、『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』ダイヤモンド社(2019年)、『新しく学ぶ西洋哲学史』共著、ミネルヴァ書房(2022年)、『神秘の前に立つ人間-キリスト教東方の霊性を拓く』編著、新世社(2005年)、続編(2010年)