グローバル・インフレと地政学リスクの時代の日本の針路 ~2022年度「金融班」研究活動の成果から~

2023年10-11月号

福田 慎一 (ふくだ しんいち)

東京大学大学院経済学研究科 教授、「金融班」主査

グローバル・インフレと地政学リスクの時代の日本の針路

国内では新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けが5類感染症に移行し、繁華街や観光地などに賑わいが戻り始めている。一方、世界ではポスト・コロナの経済活動が再開した2022年の初め以降、物価上昇率が高まっており、グローバル・インフレの時代に移行しつつあるようにみえる。当初、物価上昇はコロナ禍の影響によるサプライチェーンの混乱やロシアのウクライナ侵攻開始などによる原油や穀物などの国際価格高騰が主因であり、欧米の金融政策当局者を中心に、混乱が収まれば、物価上昇率は沈静化するとの見方が多かった。しかし、欧米では資源価格の高騰やサプライチェーンの混乱が一服した後も、賃金とサービス価格の上昇により、物価上昇率は高止まっている。日本銀行は先行きの物価上昇率が再び2%を下回る可能性があるとして、粘り強く金融緩和を続ける姿勢を示しているが、国内でも物価上昇率は上振れ傾向となっている。
国際通貨基金(以下、IMF)は7月に公表した世界経済見通しにおいて、2023年の世界経済成長率が前年比3.0%増にとどまり、2022年の3.5%増と比べて鈍化するとの予測を示した。大幅な金融引き締めの影響で、米国や欧州の成長率が鈍化し、中国ではゼロコロナ政策の解除後も経済活動の回復が鈍いとみられるためである。一方、その後の経済指標をみると米国の個人消費と雇用は底堅さを維持している。大幅な金融引き締めや一部の銀行の経営不安などにも拘わらず、米国経済は深刻な景気後退入りは避けられるとの見方も増えつつあり、来年にかけての世界や米国経済の見通しは、慎重論と楽観論が交錯している。日本については、IMFは2023暦年の成長率を1.4%増と予測する。物価上昇が消費の下押し要因となっているものの、インバウンド需要の回復などにより、国内経済には明るい雰囲気もみられる。
中長期的な日本経済の成長を考えると、財政再建や社会保障改革、あるいは構造改革の実行が避けて通れず、経済の再構築に向けて検討を行うことが必要となっている。構造問題を着実に実行することは、日本経済の将来に対する経済主体の悲観的な見通しを払拭して、供給面だけでなく需要面にも好影響を及ぼすと考えられる。今後も一層の高齢化や少子化に対応するための社会保障費の増大や地政学リスクに対処するための防衛費の拡大などにより、財政支出の増加が避けられないとみられる。いかにして財政再建と社会保障改革を果たすか、構造改革を通じてイノベーションの喚起や生産性の向上を実現していくかは、金融研究者といえども無関心ではいられない極めて重要な課題であり、今後の日本経済のあるべき姿を踏まえて改めて検討が必要とされているといえるだろう。狭い学問的な枠組みにとらわれず、幅広い視点から金融の役割を再検討していかなければ、日本経済に対して有効な処方箋を提供することは困難な状況となっている。
公益財団法人東京経済研究センターと一般財団法人日本経済研究所は、金融の諸問題に関する大学横断的な研究交流・共同研究の場として、わが国トップレベルの金融研究者グループから成る委員会「金融班」を組成し、活発な研究活動を行っている。2022年度は「世界的なリスクの高まりとポスト・コロナ時代の日本の針路」と題して、リモート開催から次第に対面での開催に移行しつつ、報告者を招いて9回にわたる月例研究会を実施した。同時に、2022年12月には著書『日本資本主義経済史:文化と制度』を出版した寺西重郎氏(一橋大学名誉教授)をゲストスピーカーにお招きしてランチ・ミーチングを開催した。金融経済学の立場から日本経済が直面するさまざまな課題や関連する幅広い経済事象について研究報告を行い、そこから得られるインプリケーションについて活発に議論した。本稿では、その成果の一端をご紹介したい(注1)。

金融を巡る研究のフロンティア

米国では企業の借入増加に伴い、信用力の低い社債や企業向け融資であるレバレッジド・ローンの残高とこれらを集めて証券化したローン担保証券(以下、CLO)が増加している。もし一部の借り手の信用状況が悪化した場合、CLOや他の借り手にどのように影響が及ぶのか。野澤良雄氏(トロント大学)は、CLOに組み込まれた債権がCCC以下に格下げされた場合、レバレッジ制約により、他の債権についても投げ売りを余儀なくされる可能性があると指摘する。個々のCLOがそのポートフォリオを多様化しようと努力した結果、各CLOが同じような債権を保有することになって、CLO市場全体ではリスクが分散されなくなっている。仮に金額のかなり大きな債権が格下げされた場合は、複数のCLOが同時にその債権の売却に転じることで、買い手が不足して売却が困難になる可能性がある。各CLOが手元資金の確保のために他の債権の売却を余儀なくされれば、他の債権の価格も下落して更なる投げ売りを誘発し、債権価格全体の暴落に至る可能性があることを示した。コロナ禍では経済情勢の悪化でB格やCCC格といった信用度の低い債券残高が増加し、借り換えが難しい借り手が増加した。銀行部門がCLOへの主要な資金の出し手となるなかで、債権の格下げとそれによるCLOの価格下落リスクに対して警鐘を鳴らした。
従業員対応の充実が企業価値の向上に貢献するメカニズムの解明は、ESG投資のSの論点として重要な課題である。柳瀬典由氏(慶應義塾大学)は、企業年金に対する経営者の方針に注目する。確定給付型企業年金の積み立て不足による年金債務は、従業員からの内部資金調達(内部負債)であるという見方もできる。経営者は年金債務による内部資金調達を活用することで、外部からの資金調達が相対的に困難な研究開発などの投資活動の実行が容易となる。年金基金に資金を追加拠出して年金債務を削減するか、それとも事業投資を行うかという内部資金の配分についての判断に際して、外部からの資金調達コストが高い企業の経営者ほど、従業員へのリスク移転とリスク管理のトレードオフに直面している。事業投資を優先して、年金積立不足への追加拠出を行わなかった場合、不足分を補うため年金資産を期待運用収益率(ERR)は高いがリスクも高いポートフォリオで運用する必要に迫られ、年金資産の運用リスクが従業員に移転される。ただし、事業投資の優先によって企業が成長すれば、従業員にも利益となるため、何が最適かは一概には結論付けられない。日本企業の退職給付制度は、年金債務の存在が企業のリスクテイクやイノベーションの阻害要因となっているとして、確定拠出制度への移行などによる確定給付型の体系の見直しが進められている。しかし、経営者や政策立案者が見落としているかもしれない確定給付型企業年金の意義についても再確認する必要がある。
少子高齢化による人口減少で地方の経済活動が縮小しており、地域金融機関の顧客や取引等の減少が予想される。有岡律子氏(福岡大学)は、地方経済における地域金融機関の役割の大きさを踏まえて、地域金融機関の収益力の現状分析と将来展望に取り組んだ。地方銀行、信用金庫、信用組合といった業態の違いや各金融機関が拠点を構える地域の特性を事業所数、地域の人口などの指標を基にクラスター分析を行い、金融機関をグループ分けした。地域銀行については、単独行、合併行、経営統合行という現在の経営体制に至るまでの経緯による分類も行い、経費削減率や利息収入、手数料収入の状況などを基に2030年度の収益予測を行った。その結果、取引先の減少等により赤字に陥るとみられる地域銀行が多く、特に地方都市型で顕著であるとの分析結果となった。店舗の削減などの経費削減などを行っても赤字転落を回避できない金融機関が多いことから、地域金融機関は生き残りのため、伝統的な銀行業務に加えて、フィンテックやメタバースなどを取り入れて、変革することが必要だと指摘する。
1980年からリーマンショックがあった2008年頃までの期間でみると、米国では金融資産残高がGDPの伸びを上回って大幅に増加した。金融経済学の発展が金融セクターのイノベーションを促したためである。代表的な事例としては、インデックス・ファンドの増加があげられ、これにより投資家が負担するリスク分散のためのコストが低下した。青木周平氏(信州大学)らは、米国における①対GDP比でみた金融資産残高の増加、②投資信託シェアの増加、③金融の単位コストの安定、④金融セクターの付加価値シェアの増加のメカニズムについて、定量的な分析に取り組んだ。分析では、リスクと取引コストが高い個別株、多数の個別株で構成される中リスク・中取引コストの投資信託、公社債などの安全資産という3種の資産があり、家計はこの3種の資産から成るポートフォリオを保有するとした動学的一般均衡モデルを構築した。このモデルから、金融資産の取引コストと個人・法人税率の低下が米国の金融資産残高増加の理由であるとの見方を示した。

経済を巡る動向や今後に向けた示唆

個々の企業の成長は、マクロ経済的にも重要である。企業によるイノベーションは経済成長の原動力であり、企業の成長は雇用増の源泉でもあるからである。向山俊彦氏(ジョージタウン大学)は、企業は事業所の集合体であるという視点から、米国における雇用の増加を企業の事業所数の増加と事業所規模の拡大による要因に分けて分析した。米国では、95%の企業が1つの事業所しか持たない中小企業であり、製造業では工場の72%が単一事業所の企業による保有だが、それらの企業によって産み出された付加価値額は全体の22%に過ぎない。一方、ウォルマートやアマゾンなどの少数の超大企業の存在感が増しており、マクロ経済に大きな影響を及ぼしている。事業所数の増加と事業所規模の拡大それぞれの効果による雇用増についてみると、いずれも少数の超大企業による寄与が大きい。イノベーションについては、既存の製品やサービスの質の向上をもたらす内的なイノベーションと新たな製品やサービスの提供、参入に繋がる外的なイノベーションに大別して議論を行った。新規参入コストの低下で、企業は外的イノベーションが行いやすくなっているが、そうして生まれた新規製品やサービスは短命になってきていると指摘する。
日本の大企業では、定期的に最高経営責任者(CEO)が交代する企業が多くみられる。鈴木健嗣氏(一橋大学)は、CEOの任期制限の有無と企業価値の関係に着目した。取締役会や株主などによるガバナンスが常に正しく機能しているという建前に立てば、CEOの任期に制限を設ける必要性はないため、CEOの任期制限を明示的に導入している企業は、世界的にみても稀である。しかし、先行研究はCEOの在任期間が長くなるにつれて、CEOの取締役会に対する力関係が強くなることで、エージェンシーコストが高まり、業績が悪化する傾向があることを指摘する。一方、頻繁にCEOが交代すると、それによって組織が混乱する可能性があり、CEOに任期制限を設けることが常に企業価値を高めるとは限らない。日本の大企業では、暗黙的にCEOの任期制限を導入している企業が多いといわれているとおり、任期制限導入のメリットがデメリットを上回る企業において、任期制限が導入されやすいと考えられる。具体的には、高学歴の役職員が多く次のCEO候補者数が多い企業では、CEO交代によるデメリットは小さいと考えられる。また、セグメント数が多く、環境変化が激しい、研究開発型企業では、CEOの任期が長くなると、能力の陳腐化や経営戦略の硬直化によるデメリットが大きくなると考えられる。こうした企業において、CEOの任期に制限を設けているとみられる企業が多いとの分析結果が示された。またCEOに任期制限を設けている(とみられる)企業とそうでない企業において、CEO交代直後の企業価値の状況をみると、任期制限を設けている(とみられる)企業の方が業績悪化などの悪影響が小さいことも指摘した。

結 び

米国では連邦準備制度理事会(FRB)の大幅な利上げにより、物価上昇率はピークを越えたとみられるものの、政策目標の2%を大きく上回っている。ウクライナ戦争や米中対立の激化により地政学リスクへの意識が高まっており、グローバル・サプライチェーンにおいては「安さ」よりも経済安全保障などの観点から調達の「確実さ」が一層重視されるようになるとみられる。国内では、原油などの資源価格高騰の一服で、輸入物価は下落傾向にあるものの、地政学リスクがそれ程重視されていなかった時と比較すれば、今後も「高い」輸入物価での輸入を受け入れざるを得ないとみられる。消費者物価が上昇するなかで、2023年は賃金も大きく引き上げられ、来年以降の賃上げの継続がデフレ脱却を判断するうえでポイントとなる。日本では人口減少などの構造的な問題に対応した抜本的な経済社会システムの再構築に十分には踏み込めず、構造問題が解決されないため、将来に対する不安を払拭できていないことが投資や消費が伸び悩む原因の1つとなってきた。ただし、労働市場をみると、高齢者や女性の労働参加率が既に頭打ちとなっており、人材獲得のための賃金上昇が続く可能性は高まっているようにみえる。賃金の低迷という日本だけに際だった特徴がようやく払拭されるかが、今後、最も注目される。財政再建や社会保障制度の改革、大規模な金融緩和からの出口戦略、人口減少下での需要喚起や人材不足など供給面の課題解決を図っていく必要があり、引き続き成長戦略や構造改革を通して、持続可能な経済社会システムを構築していくことは喫緊の課題である。2023年度の金融班も金融経済学の立場から最新の研究成果について議論を深め、必要な知見の蓄積に貢献することを目指して活動して参りたい。

(注1)以下で紹介する研究報告の報告者の所属は、全て報告当時のものである。

著者プロフィール

福田 慎一 (ふくだ しんいち)

東京大学大学院経済学研究科 教授、「金融班」主査

1960年 石川県金沢市生まれ。1984年 東京大学経済学部経済学科卒業。1989年 イェール大学大学院経済学部博士課程修了。Ph.D.取得。1989年 横浜国立大学経済学部助教授。1992年 一橋大学経済研究所助教授。1996年 東京大学大学院経済学研究科助教授。2001年 同教授 現在に至る。2021年より東京大学先端科学技術研究センター教授を併任。
主な著書(共著・編著含む) 『コロナ時代の日本経済―パンデミックが突きつけた構造的課題』編著、東京大学出版会、2022年。『技術進歩と日本経済-新時代の市場ルールと経済社会のゆくえ』編著、東京大学出版会、2020年。『金融論-市場と経済政策の有効性(新版)』有斐閣、2020年。『検証 アベノミクス「新三本の矢」-成長戦略による経済改革への期待と課題』編著、東京大学出版会、2018年。『21世紀の長期停滞論-日本の「実感なき景気回復」を探る』平凡社新書、2018年。『金融システムの制度設計-停滞を乗り越える、歴史的、現代的、国際的視点からの考察』編著、有斐閣、2017年。『「失われた20年」を超えて』(シリーズ世界のなかの日本経済:不確実性を超えて) NTT出版、2015年。