『日経研月報』特集より

システム思考を人的資本経営に活かす

2024年4-5月号

依田 真美 (よだ まみ)

相模女子大学学芸学部、大学院社会起業研究科 教授

1. 人的資本経営とシステム思考

(1)「生きている資本」としての人と組織

2020年に経済産業省が『人材版伊藤レポート』を発表し、金融庁が2023年3月期の有価証券報告書から人的資本経営に関する指標開示を義務化したことに伴い、人的資本経営という考え方が急速に日本企業に広まっている。人的資本経営とは、企業の競争力の源泉が人材となるなか、人材を管理すべき「費用」としてではなく、投資によって成長する可能性のある「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上へとつなげる経営のことだ。『人材版伊藤レポート』では、「これまでの先行体験に囚われることなく、企業も個人も、変化に柔軟に対応し、想定外のショックへの強靭性(レジリエンス)を高めていく変革力が求められる」(経済産業省2020:6)と提言したうえで、人材マネジメントの変革の方向性が示されている。
そのポイントは、人事任せの内向きで硬直的な人材マネジメントから、経営戦略と一体化した、価値創造のための自律的なオープンコミュニティを実現する人材戦略と投資への変革だ(経済産業省2020:6)。さらに、2022年に公表された『人材版伊藤レポート2.0』では、具体的な実践方法のアイデアや先進事例もふんだんに紹介されている。これらの施策は、具体策に悩む日本企業の大きな助けとなるだろう。
しかし、『人材版伊藤レポート2.0』でも、十分に強調されていない点がひとつある。それは、「変革」を進めるための仕組みや制度、対象となる人や組織などの要素間の相互作用に対する理解である。機械設備や金融資産と異なり、人的資本経営の投資対象となる人や組織は、自らの意思を持ち、相互に影響し合い、変化していく存在、すなわち「生きている資本」(ブランドン2016)である。『人材版伊藤レポート』が提唱している、経営戦略と一体化した、価値創造のための自律的なオープンコミュニティの実現を効果的に進めるには、人的資本のダイナミックな特性に配慮することが重要だ。そこで、本稿では、その入口として、人的資本経営におけるシステム思考の活用について述べたい。

(2)システム思考と組織経営

システム思考は、組織経営の分野では1994年に初版が出版されたピーター・センゲの『学習する組織』や、この数年で概念が明示化されてきたデザイン思考の発展形であるシステミックデザイン(依田2022a, bを参考)の基礎となる「全体をみるためのディシプリン」(センゲ2011:123)である。物事ではなく、相互関係を、スナップショットではなく、変化のパターンを見るための枠組みだ。社会の複雑化や環境への関心の高まりとともに、改めて関心が高まっているアプローチである。
システム思考におけるシステムとは、「何かを達成するように一貫性を持って組織されている相互につながっている一連の構成要素」(メドウズ 2015:32)のことである。言い換えれば、システムは「要素」と「相互のつながり」と「機能」または「目的」で構成される(メドウズ 2015:32-33)。例を挙げると、消化器システムは、歯や胃や酵素などの要素を持ち、物理的な流れや化学信号を通して相互につながり、食物を栄養素に分解し、廃棄物を捨て、栄養素を血流に移すことを目的としている。学校システムは、生徒や教師、教科書、校舎などの要素を持ち、教育プログラムや担任制度、日々の授業やコミュニケーションで相互につながり、生徒の学力向上を目的としている。同様に、都市や工場や企業、一国の経済もシステムであり、一国の経済システムはそのサブシステムとして、都市や企業を内包している。
人的資本経営についていえば、企業というシステムは、さまざまな部門等の組織をサブシステムとする集合体であり、それぞれの組織は多様な個人をサブシステムとする集合体だ。これらは、モノ、カネ、知識、情報やさまざまな制度などでつながっている。

(3)システムの特徴とつながりの質

システムは、さまざまな要素がつながり、相互に作用するので、その一部分を見るだけでは理解することができない(小田2017:49)。全体を考えることが大切だ。全体性を持つシステムの特徴としては、それ自体が「まるで生きているかのように、変化し、適応し、出来事に反応し、目標を追い求め、損傷を修復し、自身の生存に注意を払(う)」(メドウズ 2015:34)ことが挙げられる。また、システムは自己組織化が可能で、しなやかな弾力性を有し、進化的な動きを見せることもある。つまり、良い質のつながりを持ったシステムは、単なる部分の総和以上のものなのである(小田2017:57)。身近に存在する、うまく機能しているチームを思い浮かべると、イメージが湧くのではないだろうか。そのようなチームは、目標の達成のために、チーム内外の環境の変化に適応しながら、個人の能力の総和を超えて、まるで一つの生命体のように育っていく。しかし、つながりの質が低ければ、そのパフォーマンスは部分の和を下回る。
また、システムの目的は、必ずしも当初に人が意図したものと同じとは限らない。企業価値向上を意図して作られた組織が、何らかの理由で、構成員の保身を目的として機能している例などを見聞きしたことはないだろうか。システムが、ある完全性や全体性を持つからこそ生まれる動きである。
システム思考は、ダイナミックな複雑性の分析に役立つ手法でもあるが、その根底にある生命体としてのシステム(組織)という世界観を理解することが重要だ。このような生命体としてのシステムの特徴を理解し、その可能性を最大限に活かし、陥りやすい間違いを避けることは、効果的な人的資本経営の実現には欠かせない。

2. 構造の型を見る

(1)フィードバックとは

『人材版伊藤レポート2.0』で提示されている方法やその他の取組みを効果的に実現するための方法として、本稿では「システム原型」の活用に焦点を絞って紹介をしていく。システム思考を経営に活かすための全体像については、センゲ(2011)の『学習する組織』などを参照していただきたい。
「システム原型」の基礎となるのは、「フィードバック」という概念である。これは、「行動がどのように互いを強めたり、打ち消したり(バランスをとったり)するかを示す」(センゲ2011:129)概念である。私たちは、物事を分解し、分解したそれぞれについてA(要因)→B(結果)といった線形の思考で理解しようとする考え方を学校教育などさまざまな場面で訓練されてきた。しかし、要素間に相互作用がある生命体については、分解して一方向的な因果関係を理解するだけでは見誤ることがある。部分ではなく全体を捉え、要素がどのように影響し合ってダイナミックな変化が生じているのかを理解することが重要である。

(2)自己強化型フィードバック

フィードバックには、2種類の基本的な型がある。その基本的構造のひとつが、「自己強化型フィードバック」である。この構造は、何かが一方向に一方的に進むパターンを生み出す。例えば、労働環境が改善すると、従業員のモチベーションが向上し、生産性も上がり、業績も改善する。業績が改善した余力でより良い環境のために投資をすると、さらに環境が良くなり…といったパターンである。「自己強化ループ」では、何らかの理由で方向が変わると、今度は、逆方向に一方的に進むようになる。先の例でいえば、労働環境の悪化がモチベーションや業績の悪化を招く、というような循環である(図1)。

(3)バランス型フィードバック

もう一つの基本構造は「バランス型フィードバック」である。この構造は、一方向へと進んでいた動きがある時点で逆方向に向かい、増えたり減ったりという繰り返しのパターンを生み出す。組織経営についていえば、「変化に対する抵抗」があるときは、一つ以上のバランス型プロセスが隠れている場合が多い(センゲ2011:145)。『学習する組織』では、燃え尽き症候群削減に取り組み、就業時間短縮を行なっても、オフィスに残り続ける社員がいるので、次に、就業時間終了時のオフィスの施錠を強化すると、今度は、社員が仕事を家に持ち帰るようになった例が紹介されている(センゲ2011:144)。これは、組織で英雄と認められるための不文律が、週70時間労働だったために、従業員は、自分の労働時間がこの不文律を下回ると、努力していないのではないかという恐れが生じ、一旦は減らした労働時間をまた増やすようになることで生じたパターンであった(図1)。一定の時間が経ってから、意図せぬ結果が生まれるという「遅れ」も、システムの動きのパターンを理解するための重要な概念だ。
システム思考の分析では、このような循環の構造を、要素を矢印でつないだループ図で可視化する(図1)。そのうえで、より望ましい方向に流れを変えるのに有効な介入点を探し、具体的な介入策を考えていくのである。

3. システム原型を予め認識する

(1)システム原型とは

前項では、基本的なフィードバックの型について説明したが、実際のシステムは一つのループ(循環)で完結することは少なく、複数のフィードバック・ループの組み合わせとなっていることが多い。そのような組み合わせの中で、典型的な問題構造を示すのが、「システム原型」と呼ばれる組み合わせだ。センゲはビジネス向けの10の原型を厳選し、『学習する組織』の中で紹介しているが、中でも特に頻出するシステム原型は、「うまくいかない解決策」、「問題のすり替わり」、「成長の限界」だ(小田2017:165)。以下では、これらのシステム原型を人的資本経営に結びつけて見ていこう。

(2)「うまくいかない解決策」

1つ目は「うまくいかない解決策」と呼ばれる原型だ。これは、短期的に効果を上げる解決策が、実際は単なる対症療法であり、「時間の経過とともに問題の症状を悪化させるような、長期的な意図せざる結果」を生み出すパターンだ(ストロー2018:102-103)。対症療法の実施から症状の悪化まで時間的なギャップがあるために、意図せざる結果が対症療法によって生じたと認識することが難しく、症状が再発するとさらに事態を改善させようと対症療法が繰り返され、時間をおいて問題がまた発生する。
例えば、女性管理職比率を高めるために、候補者や上司など周りの準備状況に十分に配慮せずに、登用を急ぐと、思ったようなパフォーマンスを上げることが難しく、しばらく立つと評価が下がってしまい、女性管理職の新規登用は減速し、女性管理職比率は下がってしまう。目標との乖離が拡大するので、さらに急いで登用を進めても同様の事態が起こり、取組みは実質後退するといった例だ(図2)。

このようなパターンに対しては、そもそも意図せぬ結果を生み出すような対症療法は行わず、最初から長期的な結果に焦点を当てることで防ぐことができる(小田2017:168)。すなわち、性別に関わらず、誰もが実力を発揮しやすい環境や企業文化の構築を見据えて、粛々と取り組むことだ。必要に迫られて、対症療法を用いるとしても、それは長期的な改善策に取り組むまでの「時間稼ぎ」としてのみ用いることだ(センゲ2011:562)。

(3)「問題のすり替わり」

2つ目は、「問題のすり替わり」原型だ。これは、問題に直面したときに、対症療法と根治療法の両方の解決策がある時に、対症療法の解決策のみを実施することで起こる問題だ。根本的な解決策が行われていないために、その後も問題が繰り返し起こり、結局は火消しに追われるばかりになる(小田2017:171)。例えば、まだ仕事がおぼつかない新人の仕事で問題が生じた時に、先輩が忍耐を持てずに自分で解決してしまうことで、先輩への依存が生まれ、新人の能力開発が進まないことなどが該当する(図3)。

「うまくいかない解決策」と似ているが、「問題のすり替わり」では、根本的な解決策、この例では、難しい場面に新人が自分で対処することで新人の能力開発に取り組むこと、に最初から気付いているのだが、それが進まない状況である点が異なる。また、副作用が、「根本的な解決策を行う能力を奪うかたちで作用する」こと(小田2017:173)も特徴である。
この原型の解決策は、根本的な解決策に徹することである。ここでも、対症療法的な解決策の使用が避けられない場合は、あくまでも根本的な解決策に取り組むまでの時間稼ぎとしてのみ使うことが重要だ。(センゲ2011:556)

(4)「成長の限界」

3つ目は、「成長の限界」と呼ばれるシステム原型だ。これは、何かを成長・普及させたいとしているときに、なかなか成長しなかったり、頭打ちになったり、反転して崩壊してしまうようなパターンをつくる、「予期せぬ制約要因」(小田2017:176、ストロー2017:110)を持つ構造だ。これは、限界に無配慮な早すぎる成長によって起こる。一時的に順調に成長をしていても、ある時点では必ず何らかの外的・内的要因によってその成長は必ず制約を受ける。ここでの制約要因とは、例えば、資金の入手可能性、マネジメント能力、外部者との協働への意欲や能力などが挙げられる。(ストロー2017:110)
人的資本経営においても、新規事業チームが順調に成果を出していたのが、事業拡大に伴い規模が大きくなるにつれ、チームの価値観やワークスタイルを共有しない新メンバーが増えることで、成長が頭打ちになる例などが考えられる(センゲ2011:555-556)。このような成長の限界に対応するには、成長を推し進めるのではなく、限界を見つけ、限界を克服するための投資を行うことだ。上記の例でいえば、事業を行ううえで守り続けなければならない大切な価値観やワークスタイルが、チームが拡大しても、共有されるような仕組みや環境を整えることが重要であろう。

4. 終わりに

本稿では、人的資本経営の推進、すなわち、人材マネジメントの「変革」を進めるための仕組みや制度、対象となる人や組織や取組み間の相互作用、特に時間をおいて生じる影響、に対する理解の重要性と、その実現のためのアプローチとして、システム思考の活用を提言した。「うまくいかない解決策」と「問題のすり替わり」原型からは、対症療法ではなく、長期的な視点でより根本的な解決策に取り組むことの重要性を、「成長の限界」からは、短期と長期のバランスの重要性を学ぶことができた。
その学びを活かすには、システミック・デザインのアプローチ(依田2022a, b)も有効であろう。システミック・デザインでは、取組みを設計する最初の段階で、取組みに関するシステムを俯瞰し、現状のシステムで起こっている負のパターンの根底にある構造やメンタルモデルを分析する。そうしたシステミックな視点は、「変革」と呼ぶにふさわしい、大胆な変化を起こすための介入点を明らかにする。次に、その分析結果を踏まえたうえで、望む未来を大胆に描き、その実現に必要な仕組みやサービスやものをデザインしていく。プロセスを通して、ステークホルダーを巻き込みながら進めていくことも特徴だ。
人、組織、社会、自然環境などの「生きている資本」を重視する経営が、本当に企業価値向上につながるのかについては、財務アナリストのジョセフ・ブラングトンが、そのような経営を行う企業60社で構成された「LAMPインデックス」と、世界の主要なインデックスとの長期パフォーマンスを比較した結果から明らかだ。1994~2015年のLAMPインデックスの累積株主リターンは、他の主要インデックスの2.4~3.6倍になったという(注1)(小田2017:30)。生命体としての、人や社会、自然環境を重視する経営は、企業価値向上に結びつくのだと確信を持って、より多くの企業が人材マネジメントの変革に取り組むことを期待したい。

参考文献

小田理一郎(2017)『学習する組織入門』英治出版
経済産業省(2020)『「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクト(伊藤レポート)最終報告書』
経済産業省(2022)『人的資本経営の実現に向けた検討会報告書~人材版伊藤レポート2.0~』
ストロー、デイビッド・ピーター(2018)『社会変革のためのシステム思考実践ガイド』英治出版
センゲ、ピーター(2011)『学習する組織』英字出版
松村明 監修(2020)『デジタル大辞泉』小学館
メドウズ、ドネラ・H(2015)『世界はシステムで動く』英治出版
依田真美(2022a)「根本からの変化を目指すシステミックデザイン ~社会変革への新たなアプローチ~」日経研月報2022年3月号
依田真美(2022b)「日本経済の再出発に向けて『システム移行のためのデザイン』から考える」日経研月報2022年7月号

(注1)原情報は、Brandon, J.H.(2016) “Companies that Mimic Life: Leaders of the Emerging Corporate Renaissance”による。

著者プロフィール

依田 真美 (よだ まみ)

相模女子大学学芸学部、大学院社会起業研究科 教授

クレディ・スイスにて証券アナリスト、スタンダード&プアーズにて事業会社・公的部門格付部部長、証券化本部長として、日本・韓国・中国の事業会社や自治体、公的機関やプロジェクトの分析に携わる。その後、地域および組織活性化コンサルタントとして独立。2022年より現職。マサチューセッツ工科大学修士(経営学)、北海道大学 博士(観光学)。