World View〈ヨーロッパ発〉シリーズ「ヨーロッパの街角から」第38回

メッセから読み解く未来 ~ハノーファー産業技術見本市~

2023年6-7月号

松田 雅央 (まつだ まさひろ)

在独ジャーナリスト

ドイツ北部、ニーダーザクセン州の州都ハノーファーで毎年開催されている世界最大級の産業技術見本市「ハノーファー・メッセ」。この4月に開催されたメッセの主テーマは「CO2ニュートラル」「水素経済」「AI」など、いずれも産業界が世界規模で直面する課題を反映したものだった。ハノーファー・メッセは産業界が向き合うべき課題を映し出す鏡、少々大げさに書けば、広く社会の進む方向を示す羅針盤ということもできる。

産業技術に求められるもの

仕事柄、筆者はヨーロッパ各地のメッセ(見本市)をよく訪れるが、レポートするうえで、第一印象を大切にしている。雰囲気や代表的な展示ブースの様子から得られる情報は少なくない。
会場に隣接する駅に降り立ち、メインゲートを抜けると、まずエネルギー分野の展示ホールが現れる(ホールの基本配置は毎回ほぼ同じ)。一口にエネルギー分野といっても範囲は広く、その中に幾つかの小テーマが設けられ、それらは時代と共に移り変わっている。
コロナ禍直前、2019年開催時の資料を見直すと、エネルギー分野の小テーマは「産業向けエネルギーシステム」「熱」「モビリティー」の3種。それが、今回は「カーボンニュートラルな製品」「デジタル・エネルギー」「モビリティーと充電インフラ」「水素と燃料電池」に置き換わった。
いずれも世界の注目を集める話題であり、すべての小テーマを「気候変動防止やSDGsに産業技術がどう応えるのか?」という、待ったなしの問いかけが貫いている。
メッセの印象も少し変わった。2019年に比べると、ブースの数は6,500から4,000に、入場者は215,000名から130,000名へ落ち込んでいる。要因は景気だけでなく、ドイツ・ヨーロッパの地位低下、さらにはメッセの存在意義そのものの変化にあると、筆者は考えている。

水素経済の再興

さて、エネルギー分野のホールに入り、まず気づいたのは水素関連の展示の多さだった。最も目立つ入り口近くのブースは、ドイツ連邦教育研究省のロゴを大きく掲げた「H2 Giga/フラウンホーファー研究所」。同研究所は国内最大の応用研究機関であり、ブースの配置からも国の意気込みが伝わってきた。
水素技術は近いうちに実用段階へ進む。本コラム「Power-to-Gas ~ガス供給の未来を拓く~(2022年9月号)」でも取り上げたように、気候変動防止、CO2排出削減、再生可能エネルギー開発といった社会の要請を背景に、ヨーロッパ各国は水素経済の実現に向け舵を切っている。
実は2000年代初め、水素経済の機運がにわかに高まったことがある。顕著な動きを見せたのは自動車産業で、例えばメルセデス・ベンツは燃料電池システム、BMWは水素内燃エンジンを完成させるなど、本格生産の手前まで来ていた。著名人がこぞって水素自動車を利用し、環境意識の高さをアピールする、そんな時代だった。
しかし、時期が早すぎた。水素充填ステーションをはじめとするインフラ整備は進まず、さらに、ハイブリッド車の台頭とEVの普及に押しやられ、水素自動車はもちろん水素経済自体が萎んでしまった。水素自動車は市販されているものの、当初思い描かれた状況とは天と地ほどの差がある。

国の本気度

では、水素経済を取り巻く環境は、いったい何が変わったのだろう。ファビアン・パーシャー研究員によれば:
「技術が大きく発展しました。基礎技術が成熟し、産業化に向けた周辺技術の開発も進んでいます。技術も仕組みも“インテリジェント”になっています」。ブースに展示されている大規模な水素の生産・貯蔵・輸送ネットワークシステム、すなわち「H2 Giga」がその典型だ。
加えて、社会状況も変わった。10数年前、利用が想定されたのは工業で生まれる余剰水素だが、現在検討されているのは、エコ電力由来のグリーン水素だ。今後劇的に増加する洋上風力発電電力を無駄なく利用・貯蔵する現実的な手法は、今のところPower-to-Gasと水素経済の活用しかない。
しかし、インフラの整備が進んでいない点は、昔も今も変わらないのでは? 例えば、水素自動車用の充填ステーションは、文字通り全国に数えるほどしかない。
「確かに小規模なインフラは少ないですが、工業向けのインフラ整備と大規模プロジェクトはすでに始まっています」。今回は、まず産業向けのインフラ整備が先行する。
正直なところ、20年後、思い描くようなシステムが構築されているかどうかは、誰にも分からない。水素経済が軌道に乗るかどうかは、国のやる気次第という側面が強い。このように不確定要素はあるが、筆者は行く末を楽観視している。

製鉄とCO2排出削減

一方、水素を利用する側の状況はどうか。ここではドイツの製鉄最大手Salzgitter(ザルツギッター)社のプロジェクトを紹介したい。
ドイツの稼ぎ頭である自動車産業や機械産業の基盤を支える製鉄産業。コークスを多量消費するなどCO2排出量が多く、Salzgitterグループだけで、国内排出量の1%を占める。世間の風当たりは極めて強い。
しかし、見方を変えると、CO2排出削減の余地が莫大だともいえる。ビジネス開発マネージャーのクリスティアン・ユンゲ氏によれば、CO2排出量を劇的に減らす、グリーンスチール生産プロジェクトを進めているという。
「天然ガスの利用、エコ電力によるグリーン水素の生産、水素還元製鉄への切り替えを組み合わせます。現在のCO2排出量を、2030年までに30%、2033年までに50%、最終的に95%削減する計画です」。
すでに、生産過程だけでなく、物流産業やユーザーと協働し、CO2削減に取り組んでいるが(写真3)、その先に排出実質ゼロという究極目標を見据えている。

グリーンスチール

ところで、「グリーンスチール」とは、正確には何を意味するのだろう。原料・燃料に焦点を当てているのか、あるいはトータルなCO2排出量から導き出される概念なのか。言葉の響きは心地よいが、本質がいまひとつはっきりしない。
ユンゲ氏は笑いながら「実は(業界に)統一された定義はありません」。どうやら、定義付けも現在進行中ということらしい。今後、水素還元製鉄その他の技術導入が本格化するなかで、明確な輪郭を示すことになるのだろう。
(あえてこの言葉を使い続けるが)グリーンスチール分野において、同業他社に対する同社の特長は何なのか。全世界の製鉄企業がその重要性に注目し、しのぎを削っているはずだ。
「いち早く取組みを始めたところに当社のアドバンテージがあります。ほぼすべての技術を完成させ、規模は小さいものの実用化に成功しています。生産規模を拡大するため総額22億ユーロの設備投資を計画していますが、ちょうど先日、EU(欧州連合)の補助金10憶ユーロが決まりました」。
どの分野でも、パイオニアはリスクを負う。その反面、公的な補助を獲得しやすく、何より、成功したときに得られるメリットが大きい。

製造現場にもChatGPT

次に、もう一つの主要テーマ「AI」、特に製造業におけるトピックスを取り上げたい。
AIはすでに、インダストリー4.0やIoTなどと比肩するキーワードとなっている。周知のとおり、特に生成AIは話題沸騰中だ。オートメーション機器の世界大手Beckhoff(ベックホフ)社は、産業用自動制御ソフトウェアに、ChatGPTをベースとする技術を取り入れようとしている。
デモンストレーションでは、英語で「ファンクション・ブロックを生成」と入力すれば、即座に演算処理プログラムが組まれた。その後の修正作業、さらにコメントの付記も難なくこなす。
一文字の間違いも許されない従来のプログラミングと違い、指令に曖昧な表現や、言葉使いのブレがあっても問題ない。基本的には、音声入力にも対応できるはずだ。
素人の筆者にも、業界に与えるであろうインパクトの強さは想像できる。また、将来は、特別な知識を持たない現場の作業者が、機器やセンサーのプログラムを簡単にカスタマイズできるようになるのではないだろうか。
実用化が本格化すると、プログラマーの仕事はどうなるのか。大量解雇に繋がるのか、はたまた、新たな職を創出するのか。ブース担当者によると、その部分はまだはっきり見通せないそうだ。ただ、今はあくまで補助的な利用を想定しており、専門的なプログラミング技能が必要不可欠だという。

労働環境の改善に利用

AIを労働環境の改善に役立てている事例もある。
連邦教育研究省のクラスター・コンペティションで受賞するなど、全国的に注目を集めている先端産業クラスター「It’s owl(イッツ・オウル)」の共同ブースで、AIが労働現場にもたらす影響について、マーケティング担当のサロメ・レスマン氏に話を聞いた。
「まさに、人・AI・技術・組織が、当ブースのテーマです。例えば、このスーツ(写真4)には多数のセンサーが埋め込まれていて、体の動きをトレースできます。AI技術を使ってシミュレーションし、より負担の少ない作業環境の構築に役立てます」。
なるほど、と思う一方、従来の技術や機械学習では対応できないものか、という素朴な疑問も浮かぶ。AIでなければ超えられない壁は何なのだろう。
筆者の質問に対し、バスタブや洗面台を製造する工場のミニチュアを前に、分かりやすく説明してくれた。
「この工場では、種類・形・色が異なる、総計100万種類もの製品を生産しています。最適な生産計画を立てるには、ビッグデータを扱わなければなりません。それと同時に、労働者の負担を減らすため、各労働者の体格や労働時間も考慮する必要があります。こういった多様な情報の処理にはAIの活用が不可欠です」。
製造業においてAIがどのように発展してゆくのか不透明な点は多い。ただ、労働者の立場に立って考えるとき、より安全で快適な作業環境に貢献する余地は大いにありそうだ。

適応と進化

さて、冒頭でコロナ直前開催のハノーファー・メッセ2019の話題に少し触れた。次の2020年は中止、2021年は「オンラインによるバーチャル」、2022年は「バーチャルを組み合わせた制限付きハイブリッド」、そして今回2023年になり、ようやく「バーチャルを取り込んだ通常」開催にこぎ着けた。
規模の縮小についてはすでに書いたが、コロナ禍はメッセに対し、プラス・マイナス織り交ぜた影響をもたらした。バーチャル・コンファレンスが一般化した一方で、実物を見たり触ったりすることや、対面コミュニケーションの重要性が再認識された面がある。
産業技術には新たな波が押し寄せ、メッセは昔ながらのスタイルに限界が見えている。両者とも、常に適応と進化を迫られているということだろう。

著者プロフィール

松田 雅央 (まつだ まさひろ)

在独ジャーナリスト

1966年生まれ、在独27年
1997年から2001年までカールスルーエ大学水化学科研究生。その後、ドイツを拠点にしてヨーロッパの環境、まちづくり、交通、エネルギー、社会問題などの情報を日本へ発信。
主な著書に『環境先進国ドイツの今 ~緑とトラムの街カールスルーエから~』(学芸出版社)、『ドイツ・人が主役のまちづくり ~ボランティア大国を支える市民活動~』(学芸出版社)など。2010年よりカールスルーエ市観光局の専門視察アドバイザーを務める。