『日経研月報』特集より

健康経営の次なる進化~人的資本の変革(HCX)~

2023年1-2月号

平野 治 (ひらの おさむ)

株式会社H2O綜合研究所 代表取締役、特定非営利活動法人健康経営研究会 副理事長

荒尾 裕子 (あらお ゆうこ)

株式会社クレメンティア 代表取締役

1. はじめに

社会構造の変化に伴い企業の経営戦略や働き方をドラスティックに変革していくことが求められるいま、私たちは社会に起き始めたこの動きを「人的資本の変革」と捉え、「Human Capital Transformation=HCX(ヒックス)」と名付けることにしました。(HCXは著者である平野治、荒尾裕子が提唱する新しい概念です。)
人的資本の変革(以下、HCX)の戦略的テーマは、Cost to Capital。人材コストを人財資本に転換することを意味するものです。本稿では、これからの新しい社会づくりに向けた動向を健康経営の次なる進化と捉え、HCXの観点から述べていきたいと思います。

2. 健康経営を起点にしたHCXの動き

まず、現在多くの企業が取り組んでいる健康経営の考え方からご説明します。
健康経営という概念を筆者らが考えたのは今から18年前の2004年のことです。当時健康経営を考えるにあたり、下記のメモを作成しました。

「企業が解決したい問題とは何か……。
社内の身近な問題や社会からの影響など、いろいろ複雑なことが起きている。
何かのやり方を変えないといけないとは思うものの……。
日々の仕事でやることが山積み。
そんな状況のなか、人に対する健康投資という新しい選択肢はどういったものなのか?
まずは“ソーシャルイノベーション”の視点から戦略を考えてみてはどうか。
なぜならば、健康は個人よりむしろ社会全体の価値創造を目指すことを考えた方がわかりやすいから。
人を資本とした健康の社会的価値を考えてみる。これらが、今起きている社会課題の解決につながるのではないか……。」

このメモにあるとおり、健康経営は、当時の社会背景のなかで企業戦略として考えられたものです。正確にいえば、この時点では「健康経営」という名称は付いていませんでした。従業員の健康を企業資本と社会資本の両面で捉え、「人という資本をいかに企業経営の中で戦略的に捉えることができるか」といったことを前提に、これまでの企業における労務管理・健康管理だけではない新しい視点で従業員の健康を企業戦略として考えたのが健康経営です。その後2006年に「健康経営」と名付け、特定非営利活動法人として健康経営研究会を設立しました。
これまでの企業における健康の概念は、従業員の身体の調子や具合を見ながら、働くうえで身体に異常がないかを見つけることが中心でした。もちろん、身体の異常を見つけることは大切なことですが、このことだけでは守りの経営であり、人という資本は最大化されません。そこで、健康経営には大きく二つの戦略視点を持つことが大事だと考えました。一つ目は、「働く場の居心地のよさをつくること」、二つ目は、「人と人とのコミュニケーションを心地よいものにすること」です。この二つの視点を戦略として組み立てたものが健康経営であり、ここでいう健康とは、人という資本を最大化する仕組みを前提としたものです。
その後、2021年に「未来を築く健康経営(通称:健康経営深化版)」を発表しました。
健康経営深化版では、人を資本化するという健康経営の本質は変わりませんが、近年、人と社会との関係がより複雑になっており、その中で人それぞれが「生きがい」をもって働くことの重要性が増している点に着目し、「働きがい」という視点で人資本化を考察しました。「働きがい」を高めるためには、企業と従業員が同じベクトルを向いていることや、企業と従業員の間の信頼関係が必要であり、従業員の「働きがい」がワークエンゲージメントを高め、企業の生産性向上にとっても大変重要なポイントとなっています。
この健康経営の考え方や取組みは、社会の中に徐々に普及してきましたが、昨今の急速な社会環境の変化を目の当たりにするなかで、「健康経営」という概念もアップデートすべきタイミングがきたと感じるようになりました。その主な理由としては、一つが「人口減少に伴う労働人口減の問題」、もう一つは「産業構造の変化とグローバル・アジェンダの存在」です。さらに加えると、Web3がもたらす分散化社会も少なからず影響要因になるであろうと考えています。
このような背景のなか、健康経営の次なる進化として提唱するのが、HCXの考え方です。


3. 消費型社会から循環型社会に移行するなかで求められるHCX

今日の日本は、大きな岐路に立たされているといっても過言ではないでしょう。2008年にピークを迎えた日本の総人口は、2046年には1億人を切るといわれており、特に人口構造の変化が経済に与える影響は大きいものがあります。
これまで日本の産業は工業分野での発展が経済を支えてきましたが、これからの産業におけるイノベーションを考えるうえでは、労働人口減少を考慮した産業構造の変革が必要不可欠です。ハーバード大学のクリステンセン教授が言う破壊的イノベーションを推進するには、ある意味これまでの産業構造をマインドセットすることが求められますが、国の個性ともいえる産業構造を社会状況に合わせて変革するというのは簡単なことではありません。このことが、働き手である人の捉え方にも大きく影響するものと考えられます。これがHCXが求められると考える一つの要因です。
そして、もう一つの要因は、国連が2015年に制定したSDGsに代表されるグローバル・アジェンダの存在です。グローバル・アジェンダは、各国が特徴としてきた産業構造に大きな影響を与えるものです。なぜならば、世界が共有するテーマを基盤に自国の産業を再構築することが求められるからです。グローバル・アジェンダのテーマは、大きく分けると「カーボンニュートラル」、「再生エネルギー」、「サスティナブルな産業システム」の3つがあり、このテーマを世界が共有し推進していくことが求められています。この意味するところは、産業構造も競争から共創の時代になったと捉えることができます。これに合わせて、産業のサイクルシステムも、SDGsやESGの取組みと連動して、生産、消費、廃棄から、循環、再生、持続の時代に変化する必要があり、今まさに産業構造の転換というパラダイムシフトが起き始めています。
SDGsなどに関連した産業構造の転換は、最近着目され始めているリスキリングにもつながるものです。人的資本というテーマがクローズアップされ、政府も企業も人材のリスキリングの在り方に関する議論が始まっています。このリスキリングは、これまでのような企業単位での人材育成とは異なるものであり、労働人口の減少を考慮したうえでの人資本化の戦略的な取組みとして考える必要があります。これも、循環型社会に移行するなかで生じるHCXが求められる背景といえるでしょう。

4. 労働人口の減少とグローバル・アジェンダから考えるHCX

次に、国内の産業・労働市場の現状と変革の観点から見ていくこととします。
日本は中小企業の国といわれており、約380万社ある企業の内99.7%は中小企業が占めています。基幹企業となる大企業の役割をイノベーティブな思考で考えることも当然必要なことですが、日本を支えている中小企業の在り方について考えることは、労働人口が減少する社会において、より優先度が高いと考えています。つまり、労働人口が減少することに伴い、地方における中小企業の役割の変化や、産業構造の変化に対応した中小企業の変革が必要になるということです。
具体的には、これまでは課題解決をテーマにした発想が中心でしたが、イノベーションの視点で捉えた場合、解決ではなく「変革」をもたらすことが、企業戦略につながります。先述したとおり、これからの社会は「循環、再生、持続」の構造に向かっていることを考えると、これまで多くの中小企業が取り組んできた、製品の向上と生産の効率化といった、「生産、消費、廃棄」という視点からの転換が望まれます。このことを人的資本の視点で考えるならば、労働人口の減少を背景に、企業が固定的に人的資本を保有することが難しくなるという現れでもあります。ここで示す人的資本の流動化とは、人という資本が多面的に働くことを意味します。企業が人材を固定的に確保するという考え方から、人材を流動化して複合的な働き方を可能にする体制づくりが求められるため、人材の確保がより深刻となる中小企業が積極的に取り組むべきテーマともいえます。
このことをHCXの観点で考えるとするならば、一人ひとりが人的資本としてのパフォーマンスを多面的に活かす仕組みづくりが必要であり、「関係生産人口」という言葉で表現することができるのではないでしょうか。1人の生産人口を複合化していく関係生産人口の考え方をベースに、人的資本の適正配置を考える戦略モデルを構築していくことがより求められる時代になってくると考えています。
次に、二つ目の要因であるグローバル・アジェンダと企業の存在意義「パーパス」の関係について述べていきます。
これまでは、企業それぞれが独自の戦略テーマ設定をし、企業は自社のミッションで活動してきました。グローバル・アジェンダの登場により、企業経営において注目されるようになったのが、「なぜこの仕事に取り組むのか」といったパーパスを考える戦略です。この「なぜ」の対象になるのが社会です。パーパスとは、「社会で共有する目的」のことを指すものであり、例えば、脱炭素(カーボンニュートラル)、再生化、サスティナビリティなど社会で共有する目的の中に自社事業の役割を位置づけ、それぞれの事業体がそれぞれのやり方で社会的目的の実現を目指していくものです。
また、この「パーパス」を生きたものにするためには、従業員一人ひとりが会社の目指すパーパスに併せて、自分の目指したい姿や役割を位置づけていけるかがポイントになります。この実践の方法として、企業の経営層と従業員が「対話」を持つことが有効です。マサチューセッツ工科大学のダニエル教授は、人と人との関係が良好だと、個々の思考が前向きになり、他者との連携や新たなチャレンジに取り組むなど、ポジティブな行動につながると述べています。そのため、対話を通じてオープンな関係を構築し、価値意識を共有していくことで、企業のパーパスが実効性を持つものになり、その真価を発揮できます。
これまでの事業の考え方は、自社の利益を最大化することが第一優先でした。この自社利益の追求という戦略テーマは、当たり前といえば当たり前で、どこの会社も自社の利益を考えて事業活動をしてきたはずです。ところが、SDGsがグローバル・アジェンダとして登場して以来、社会利益と自社利益のバランスをとる事業戦略の構築が求められてきています。この両立を目指す経営は一見難しい課題にみえますが、社会の利益創出をマーケティング視点で考えた場合、自社の新規市場開拓として捉えることができます。そのため、SDGsと併せてESG投資を考える機関投資家も増えてきています。SDGsとESG投資に共通する点は、持続可能な社会づくりというテーマです。循環や再生といった未来志向の戦略キーワードを軸に、「人を最大限に活かす」戦略づくりが求められます。そしてこれらの取組みが、株式市場から直接評価される時代になりつつあります。人資本化の戦略をどのように打ち出していくかが企業価値となり、人的資本を重視する経営への転換がより求められるようになってきています。

5. これからの分散化社会における資本戦略としてのHCX

最後に、Web3がもたらす分散化社会の影響についても触れておきたいと思います。
2025年問題という言葉を耳にする人は多いかと思いますが、最も大きな変化は「集中化から分散化」に社会は移行し始めているという点です。この背景にあるのは、ネット社会の進化、いわゆるWeb3の社会です。インターネットが社会で使われ始めたのは、30数年ほど前の1980年代末ですが、この当時は、便利な通信システムといった捉え方で普及し始めました。1990年代半ば以降は、商用から一般のネットワークとして活用の範囲が広がっていき仕事や暮らしの合理化や効率化を実現してきました。そして、2025年、さらには2030年になると、ブロックチェーンや量子コンピューティングシステムが社会で多く使われるようになると考えられます。この環境の変化は、分散化社会を加速させる基盤となることでしょう。
例えば、集中化の時代であれば、情報は集めること(ストレージ)であったものが、分散化になると情報を個人が台帳として持つことになります。人的資本といった視点でこのことを考えた場合、より個人が持つポテンシャルを引き出しやすい社会環境になると考えられます。
民間企業が実施した最近の働き方に関する意識調査結果をみてみると、働く目的として、やりがいのある仕事や自己成長を望む声が大きくなっています。さらに、働き方に対する価値意識の変化は、コロナ禍でより加速している傾向があります。また、オンラインを活用したリモートワークが普及し、働く側が働き方や働く場を選びやすくなってきました。そのため、会社が働き方をマネジメントする時代から、個人が働き方をマネジメントする時代に変化し始めています。一つの企業の中で仕事をする終身雇用の時代から、人財としての人が副業・兼業含め、複数の仕事場で働く雇用形態へとさらに社会が変化していくことが想定されます。
このような分散化社会のなかで、HCXを考えるには、人的資本の適正配置の視点に加えて、「コミュニティ」という場づくりや「協業」という視点が大きな意味を持ってきます。目的・テーマごとに組成される小規模コミュニティとこれらを自由に選択していけるという環境は、人という資本が多面的に働くことを可能にしていきます。このことが働く意義や価値を高め、人的資本を最大化するととともに、個人の健康度や幸福度の向上、ひいてはWell-beingの実現にもつながっていきます。
次の時代の、新たな価値創造や競争力の源泉になるものは、人の「意識」「信念」「知識」より生じると考えています。だとすれば、人という「資源」を「資本」へ転換するために、一人ひとりが「無形資産」として持つ、未活用の知恵や異なる知識を引き出すことが重要となります。人を資本とする新たな経営マネジメントは、従来の「管理」から脱して、「価値創造のために人を活かす」といった転換が必要であり、人が仕事場を選ぶ「ジョブ・チョイス」或いは「ワーク・チョイス」といった視点が主流となります。これが人的資本を最大化する仕組みとして重要になると考えています。

6. おわりに

以上、HCXが求められる背景要因と、分散化時代での人財流動化について述べてきましたが、結論として企業に求められていることは、「社会と付き合うこと」です。このことについて、何だ当たり前のことじゃないか、と思われる方も多いかと思いますが、従来の企業戦略は、自社が属する業界内で競争し成長することが戦略目標でした。これからの日本の社会は、あらゆる面で共創の時代になると考えています。
その背景には、人口構造の変化が主な要因であることは先に述べましたが、この変化を質的視点で考えてみると、また別の側面が見えてきます。それは、労働人口が減少するなかでも「人不足と人あまり」が同時に起きる可能性があるという点です。人不足と人あまり、これはまったく正反対のことのようにみえますが、管理型の仕事はAI(人工知能)やDX(デジタル・トランスフォーメーション)で合理化され働く人は最小限で運営できるようになってきました。逆に高度な先進技術やデザインなどアイディアや感性が求められる仕事は増え、人不足となってきています。
このような社会状況のなか、会社組織のカタチも大きく様変わりしていくでしょう。循環・再生・持続サイクルをベースに、次の時代の人的資本の流動化戦略をHCXと捉え、それぞれの企業が持つ個性を活かして戦略を組み立てていくことが分散化時代における企業のイノベーション戦略であり、これからの社会に求められる姿だと考えています。

著者プロフィール

平野 治 (ひらの おさむ)

株式会社H2O綜合研究所 代表取締役、特定非営利活動法人健康経営研究会 副理事長

マーケティング・プランナー
技術×人財×仕組み×コミュニケーション=新市場戦略、と位置づけプランニング事業を展開。
主な仕事 NHK 社内マネジメント講座、エーザイ アルツハイマー型認知症治療薬マーケティング計画およびコンサルティング、資生堂 新ブランド マーケティング計画、東急電鉄 たまプラーザ駅前地区開発マーケティングプラン、健康経営研究会 人資本化の推進、東京国際空港羽田国際線ターミナル デザインコンペ最優秀賞、エーザイ 「安心して暮らせるまちづくり」マーケティングプラン、ヤクルト本社 DTCマーケティングプラン、ヤクルト本社 乳酸菌化粧品「ikitel(イキテル)」新商品開発プラン、電力会社 市場創出マーケティングプラン、など

荒尾 裕子 (あらお ゆうこ)

株式会社クレメンティア 代表取締役

福岡市役所、アクセンチュア株式会社を経て、ヘルスケア・公共政策領域を専門とするコンサルティング会社を2011年に設立し、代表取締役に就任。現在に至る。
国や大学の研究機関にも席を置き、内閣府、厚生労働省、経済産業省等が行う地方創生やヘルスケア関連政策および自治体が立案する各種総合戦略・政策別計画等の立案・展開プロジェクトを手掛けるとともに、企業における新事業領域の構築支援などに取組む。
Cost to Capitalの概念をベースにしながら、社会インフラの視点として、地域課題を地域価値に転換できるまちのリ・デザインによる地域循環共創のまちづくりの実現に取組むとともに、一人ひとりが多様な形で自ら選択しながら社会に関わりを持てる人的資本の変革(HCX)をテーマにした各種調査研究事業にも取り組んでいる。