医療と介護のサステナビリティ(第3回)

2023年12-2024年1月号

〈話し手〉 渡部 洋一 (わたなべ よういち)

日本赤十字社・業務執行理事/医療事業推進本部長

〈聞き手〉 青山 竜文 (あおやま たつふみ)

株式会社日本政策投資銀行設備投資研究所 上席主任研究員

本連載の3回目は、これまでとは少し違う角度で、「災害救護としての医療」が主たるテーマです。東日本大震災の被災時には福島赤十字病院にて副院長として陣頭指揮を執り、新型コロナへの対応においてもダイヤモンド・プリンセス号での救護活動を現場で行った渡部氏に話を伺いました。
医療機関というのは平時の医療行為と緊急時の医療行為の双方を担う役割があり、日本赤十字社(以下、日赤)はその中心的な役割を果たしてきた公的医療機関です。本稿では、日赤が組織として緊急時のサステナビリティにどのように寄与してきたか、またその経験はどのように活かされているか、という観点でまとめていきたいと思います。

1. 災害医療に対する日本赤十字社の立ち位置

渡部 日赤は災害救護、医療事業等を含め9つの事業(注1)を行っています。その中でも災害救護対応は日赤としても最も大事な事業の一つです。というのも、1877年(明治10年)の西南戦争の際、初代社長となる佐野常民が、田原坂の戦いで薩摩軍の兵士がけがの治療もされずに放置されているのを見て、「敵味方の区別なく負傷者を救助しなければならない」という思いから、政府軍征討総督であった有栖川宮熾仁親王に「博愛社設立」を建議し、即日許可を得て博愛社の活動が始まりました。その後、1886年に日本政府がジュネーヴ条約に加入すると、博愛社は翌1887年(明治20年)に日本赤十字社と改称され現在に至ります。当初は戦時救護を行うことが社則に示されていましたが、1888年(明治21年)に磐梯山噴火が起こると、日本赤十字社病院から3名の医師が麓の猪苗代町に派遣され負傷者の救護を行いました。この活動により磐梯山は「日本赤十字社平時災害救護発祥の地」と呼ばれています。以降、災害救護が日赤の根幹となります。そして、日赤の災害救護の最大の特徴は、「急性期から慢性期まで切れ目のない、息の長い救護活動を行う」ということにあります。

-具体的にはどのような体制で取り組まれているのでしょうか。

渡部 まず日赤には全国に91の病院があり、そして47都道府県全てに支部があります。日赤全体で救護班を約500班編成しており、救護班要員は約5,200人です。昨今、災害救護ではDisaster Medical Assistance Team:DMAT(以下、DMAT)が有名ですが、赤十字病院の中にもDMATのチームが189班あり、隊員として1,325人が登録されています。
指揮命令系統に関して、赤十字救護班は日赤の都道府県支部、DMATは厚労省や都道府県と違いはありますが、両者は協働して活動します。
皆、もともとの医療施設での業務があるので、その際に出動可能な職員が対応をする形となります。逆に災害救護に出動した人の仕事を、残った職員がカバーします。平時は通常の医療活動をしていますが、定期的に災害救護訓練を行っており、災害が発生すると災害モードに変わる形です。

-渡部先生自身は脳神経外科が専門ですが、ご自身の経験として災害救護への関わりはどのような流れだったのでしょうか。

渡部 私の場合は福島県立医科大学で脳神経外科の教室にいましたが、大学病院の救急科の立ち上げにも関わりました。脳神経外科というのは当然救急医療と密接な関係にあり、そうした経験に基づき福島赤十字病院に赴任した後、災害救護に関わるようになりました。

-先生以外でも、そうした形で外から来た人が訓練のなかで救護対応を行うようになっていくということもあるのですね。

渡部 日赤の職員になると、災害医療について研修を受け、院内及び全国6つのブロックで毎年開催される災害救護訓練に交代で参加します。順番に参加することで組織としての経験が積み上がっていきます。

2. 息の長い救護活動

-先程の「息の長い救護」とは、具体的にどのような活動なのでしょうか。DMATと異なるところはどのような点でしょうか。

渡部 DMATは基本的に超急性期、発災後48時間以内での対応が主たる役割です。日赤はそうした超急性期も対応しますが、その後の長期に亘る切れ目のない救護活動が日赤の特徴です。日赤救護班は「自己完結」という大きな特徴を有しています。支部や病院が多くの車両を有していますので、その車両に災害救護に必要な物資(医療資機材、食事、寝袋、冷蔵庫、ライト、暖房器具、発電機、衛星電話、PC、FAX等々)を積み込み、現地に向かいます。そうした物資を配備しているのは支部で、支部職員と病院職員が一緒に自己完結で活動します。そしてひとつの班が3-4日間、活動をするとまた別の病院と支部から交替の救護班が来る、という形になります。
被災者の方々に緊急支援物資等をお配りしていますが、これは国民の皆様のご寄付により賄われております。

-災害が起きた場合、自院の人員だけでは対応が出来ず、さまざまなエリアから支援が来ると思いますが、これはどのようなフローになっていますか。

渡部 基本的には隣の県から支援が来るわけですが、それでも足りないときは同じブロックから、さらに全国からとなります。
そして、先程申し上げたような訓練も含め、こうした動きの基盤に、災害マネジメントサイクル全体における対応があります。大規模災害が発生した際には、医療救護などの応急対応に加え、生活再建支援など復旧・復興にかかる支援活動を行っております。

-平時の活動にはどういうものがあるでしょうか。

渡部 平時から災害時の被害軽減・抑止のため、支部職員による救急法等の普及や、学校や地域で防災教育や減災に対する取組みを行っています。「応急対応」、「復旧・復興」、そして「防災・減災」の各災害サイクルに関与するという「災害マネジメントサイクル全体への関与」を行うことを目的として普段から各種の取組みを進めています。

-医師という観点では、救急科や外科系の方が主体となるのでしょうか。

渡部 超急性期には外傷に対する診療の機会が多いので救急科や外科系の医師が主体となりますが、先程申し上げた避難所診療などを考えると、慢性期には内科系の医師が主体となります。そして、心の病などへの対応では精神科医や「心のケア」の研修を受けた看護師等が力を発揮していく形となります。

-そうした心の病への対応というのは阪神淡路大震災以降に拡がったと思うのですが、まさに渡部先生が直面された原発事故後の福島で、それはどのように機能したでしょうか。

渡部 放射線に対する恐れから、福島県への救護班の派遣数が少なかったのと同様に、心のケア班も岩手県や宮城県より少なかったのが事実です。しかし、慢性期になってから避難所や仮設住宅において避難住民に対して心のケア活動が行われました。救護班に関する動きなどは、長浜赤十字病院の中村誠昌医師による論文(注2)にも詳しく書かれています。

3. 東日本大震災での経験

-ここからはその東日本大震災における対応をお聞きしていきたいと思います。渡部先生自身の経験をお聞かせください。

渡部 私自身は震災の翌日に相馬市の体育館で救護活動を行っていました。そして、その日の午後に原子力発電所が水素爆発し、夕方の5時頃に支部から「原発が爆発したので、川俣町の避難所に移動し活動してください」という命令が来ました。避難していた住民の方に「俺たちを見捨てて帰るのか」と言われた救護班員がいましたが、それはこの局面でのことです。

先程の中村先生も同じく相馬市内で活動をしていました。しかし、その日活動していた12班(県内1班、県外11班)の救護班のうち14日の午前中以降、県外の救護班がすべて撤収しました。そして、それからの1週間は県外からの救護班派遣が途絶えました。そのため、福島の救護班だけで避難所を回る形となりました。
1週間を過ぎてから、徐々に動きが出てきたわけですが、福島市に近づくと線量が上がりますので、その数字を見て恐怖を感じた救護班がUターンしたこともあったようです。少し話は異なりますが、関東から石巻等に向かう際に、救護班が福島県を通らずに遠回りをして新潟から山形を経由することもありました。これは放射性物資の拡散状況がわからなかったためです。
その後、放射性物質は同心円状ではなく風に乗って拡がることがわかり、空間線量計や個人用ポケット線量計を携行する形になって、線量を測定しながら活動が出来るようになってきました。それまでは各地点における空間線量や汚染の程度がわからなかったというのが実情です。
日赤には「いかなる状況下でも人間のいのちと健康、尊厳を守る」というミッションステートメントがあります。これはわれわれ赤十字人の使命ですが、この時の状況を考えると「放射線災害の時に日赤救護班の福島県への派遣が中断したことに関して検証しなければならない」という思いがあり、本社に振り返りをお願いしたというところがあります。その後、これは少し先になりますが、当時本社事業局長だった富田博樹先生(2016年~医療事業推進本部長、2019年~2022年:副社長。現在、日本赤十字学園理事長)のご尽力により2013年に「原子力災害における救護活動マニュアル」が策定されました。

-原子力災害への対応という意味では、当初どのように対応すべきか、わからないことも多かったのではないでしょうか。

まったくわからなかったです。その後、屋外と屋内の放射線量を毎日測定することにより、病院の中の放射線量は問題にならないぐらい低いかゼロであることがわかり、屋外でも日々低下していくことが示され安心感が得られました。そして、マスク、ゴーグル、ガウン(防護服)、手袋などの個人防護具を正しく着脱すれば放射線による汚染を防げることを研修で学びました。職員に対して外出時には肌の露出を最小限とし、屋内に入る場合は衣服に付着した放射線物質を払い落とすよう、また食事では食品中の放射性物質濃度の測定後に流通された物を食べ、家庭菜園の野菜等は控えるよう指示しました。また安定ヨウ素剤を職員数の1.5倍分確保しました。安定ヨウ素剤は放射性ヨウ素に暴露される24時間前から暴露後2時間の間に服用すると効果的なので、適切なタイミングで配布すると周知しました。そして2012年から職員に対してホールボディカウンタによる内部被ばく検査を行いましたが、預託実効線量(成人では50年間、子どもでは70才までに人体が受ける内部被ばく線量を最初の1年間で受けた預託として計算される線量)は全員が1mSv以下でした。ただし、低線量の長期間被ばくによる影響については過去に知見がなく、不安に思う住民の方も多かったのが事実です。
少し話が飛びますが、実はこの後お話しする新型コロナへの対応という点で、似通ったところがあります。相手がウイルスでも放射線でも感染や汚染を防護するための基本的な予防策は同じです。偏見や風評被害なども含め原発事故と共通する部分を感じました。ウイルスは測れませんが、放射線は測れますので、放射線の方が数値を把握しながら安全に活動が出来るものだとも思いました。
原発事故から2週間後の3月末に、原爆症研究の第一人者である長崎赤十字原爆病院の朝長万佐男院長(現名誉院長)に福島赤十字病院で全職員に向けて講演を行っていただき、「自分は2歳の時に爆心地から2.7㎞のところで被爆したがこんなに元気だ。100mSv被ばくすると癌の発生率が0.5%増加するが、今の福島の空間線量の値ではまったく心配はない」と説明していただき、とても安心したことを今でも覚えています。しかし一方で小さなお子さんがいらっしゃるご家庭では、福島での生活が心配なので県外に避難する、という動きもありました。科学的には安全だと丁寧に説明してもリスクに対する精神的な不安を取り除くことは困難で、両者の間には大きな溝があります。

-福島赤十字病院の医療スタッフの方々自身はどうだったでしょうか。

福島県から避難するために退職したいというスタッフも少なからずいました。病院長名で文書を出し、避難を希望する職員に対してはその職員の意思を尊重すること、状況が落ち着いて、戻って来たいと思った時にはまた当院で働いてもらいたいことを伝えました。この時期に病院を離れた職員は20名程いましたが、しばらくしてから戻ってきた人も相応にいます。
ある看護係長の話ですが、小さいお子さんがいるためご家族が福島市から山形市に避難しましたが、「私は逃げない。患者さんのために病院に残る」と80㎞の距離を車で通勤してくれました。その言葉を聞いて、どうしようか迷っていた若い看護師達が「私たちも先輩についていく、病院は辞めない」と仕事を続けてくれた、ということがあり、そうしたリーダーの存在には本当に助けられました。こうしたことは災害教育以前に医療人としての使命感ともいえます。

-一方で、そんななかでも充分に出来なかったことを感じ、次のステップとしてルール作りを行う、ということがまさに「原子力災害における救護活動マニュアル」の話だと思うのですが、そうした意味では災害救護自体に継続性があるといえますね。

渡部 その通りです。放射線災害下での救護活動基準が定められたことで、将来原子力災害が万一発生した場合も基準に則って災害救護活動を継続することが出来るようになりました。赤十字の職員には人道、博愛の精神をもって活動することが求められます。そして話が飛びますが、看護師養成事業に関しては、単に医療施設に必要な看護師を確保するのではなく、赤十字の基本原則に基づく看護を実践して、赤十字の理念である人道を具現化できる看護師を育てていきたい、とも考えています。

4. 新型コロナウイルスへの対応

-今度は喫緊の新型コロナ対応についてお伺いします。2020年2月のこととなりますが、ダイヤモンド・プリンセス号における活動というのはどのような経緯でなされたものでしょうか。

渡部 福島の原発事故が発生した際、被ばくのリスクを受容し人道の精神から福島に来てくれた県外の救護班があったわけです。恩返しといいますか、今後同じような大きな災害が発生した際には福島赤十字病院から救護班を出動させようということをずっと考えていました。そのなかでダイヤモンド・プリンセス号への出動依頼があったことから、福島赤十字からは自分と看護師2名、支部からは2名のあわせて5名で横浜に向かいました。

このタイミングは本当に初期でしたので、混乱という意味では東日本大震災の時と近いところがありました。例えば同じ部屋の宿泊客がPCRで一人は陽性、一人は陰性の際、陰性の人の扱いをどうするのか、搬送先をどのように選択するのか、そういったことの一つ一つから始まりました。クルーズ船の中ではゾーニングを行うことは困難な構造ですので、われわれが船室で陽性者と接触した後、災対本部に戻る際に普通の衣服の人とすれ違う形になっていました。
日赤はこの際、救護班とDMATの両方を派遣しました。救護班は67名、DMATは75名です。各々の役割は違い、日赤救護班は船内のメディカルセンターの診療支援を行い、体調不良のある乗客の診療を行いました。DMATは重症患者とPCR陽性者を船外に出す、というミッションでした。乗客の方に説明を行い、説得して同意書をいただくことや、症状のある乗客を病院に搬送する際に救急車に同乗して観察することも行いました。陰性であった下船者の方には埼玉県の税務大学校で健康観察が行われましたが、ここにも日赤は救護班を送りました。
社の例規類集には災害対応のみならず、感染症対応も日赤の役割として明記されています。この初期の対応を嚆矢として、この後、日本各地の赤十字病院で2023年9月末まで62,684名の新型コロナ入院患者を受け入れました。また自院だけではなく、さまざまな医療施設に人員、特に看護体制の弱い沖縄県の病院や大阪の入院待機センターなどにも看護師を派遣する、という対応を行ってきました。

-一般診療を継続しないといけないという病院の役割と、緊急事態としての感染症対応のバランスについてはどのように考えてこられたでしょうか。

渡部 これは福島赤十字の病院長だった時の経験になりますが、新型コロナ患者に対応しながら一般診療や救急診療も出来る限り行い両立させるという考え方でした。とはいえ両方を維持することは簡単ではありません。実際には新型コロナ対応は年配の医師を主体に、若い医師は一般診療と救急対応、ということを考えつつ、診療科が偏らない形で「コロナ当番」を作り、多くの診療科医師に新型コロナ患者の入院対応を行ってもらうことにしました。内科だけではなく、皆で対応するということです。偏ってしまうと、特定の診療科の医師だけが疲弊してしまいますので。そのうえで出来る限りのことをやる、というのはやはり日赤の思考だと考えています。

-先程の東日本大震災での話にも関連しますが、そうした対応をしたうえで「ここはもう少し出来ていれば」という部分はありましたか。

渡部 医師数に余裕があればもっと出来たのではないかという気持ちはあります。また、大規模病院では重症・中等症の患者を中心に多くの新型コロナ患者を受け入れましたが、一方で小規模病院では医師が足りない、建物のゾーニングが難しい、確保可能なコロナ病床の数に制限がある、という点は悩ましいところです。ただし日赤全体としてはコロナ用に確保した病床の中に幽霊病床はなく、しっかりとした対応は出来たのではないか、と考えています。

5. グループとしての日本赤十字

-最後に、現在の渡部先生の主たる業務となる日赤の医療事業の推進についてお話を伺いたいと思います。その中でも特に、医療機能の持続的な維持につきお聞かせください。

渡部 日赤は全国に91の病院があり、都会から地方、過疎地にも存在しております。さまざまな規模、機能の病院があり、各々の地域で自院の役割を果たしています。高度急性期医療は主に400床以上の大規模病院が担っていますが、これは91病院中約4割を占めます。大規模病院では比較的医師数は多いのですが、中小規模の病院では医師不足が続いており、赤十字病院グループ全体で医師、看護師など人の確保が喫緊の課題です。
2040年に向けた赤十字病院グループのビジョンは、いかなる状況下でも人間のいのちと健康、尊厳を守るというミッションステートメントに基づき、持続可能な病院経営を行い、良質な医療をサステナブルに提供することです。現在、「グループ経営」というキーワードのもと、グループ全体として安定した経営基盤を確立することを目標としています。地域から求められる医療を継続させるためには、質の高い医療の提供と財政状況の改善が必要です。今後、人口減少と少子高齢化が進み、診療報酬改定など厳しい外部環境が続くなかで、グループ全体で保有するヒト、モノ、カネなどの医療経営資源を効率的に活用するとともに、本部による経営管理体制の強化により、グループのさらなる成長を実現したいと考えています。グループ内の資金制度改革を始めており、新たな内部資金制度とグループ経営資金の創設に向けて準備中です。
これまで、第一ステージとして経営の厳しい病院に対するリスクを軽減するために本部のガバナンスを強化してきました。現在は第2ステージとして、全病院のカテゴリー分類を行っています。各病院が自院のグループ内での立ち位置、役割を理解し、グループを支える基幹病院は人材育成、人材支援、さらなる利益増加という役割を担うこと、経営状態が安定している病院はこれを維持すること、経営が厳しく本部からの支援が必要な病院は、自院の努力と本部からの支援のもと経営状態の安定化を目指すことを強く意識してもらいます。2040年を見据え、日赤の医療事業の安定した継続に向けて取り組んでおります。

-本日は具体的なこれまでの取組みを伺う時間が長くなり、今後のグループの動きをお聞きするには時間が足りなくなってしまいましたが、方向性は伝わってきました。大変有難うござました。

本連載でさまざまな角度から「サステナビリティ」ということを考えていますが、実際に災害やパンデミックへの対応を支えるため、何を平時から行い、どのように経験をつないでいくか、という点は直接的にこのテーマにつながる内容です。博愛社からの理念がどのようにプラクティカルに現在に繋がっているか、またその中でも生じうる課題は何か、ということにつき改めて学んだ回となりました。

(注1)国内災害救護、社会活動、青少年赤十字、国際活動、赤十字ボランティア、社会福祉事業、医療事業、看護師等の養成、血液事業の9事業
(注2)「日本赤十字社の放射線災害への取り組みとこれからの課題」、Japanese Journal of Disaster Medicine 2022.27. 173-180

著者プロフィール

〈話し手〉 渡部 洋一 (わたなべ よういち)

日本赤十字社・業務執行理事/医療事業推進本部長

1983年富山医科薬科大学医学部(現:富山大学医学部)卒業。福島県立医科大学脳神経外科学教室入局。国立循環器病センター(現:国立循環器病研究センター)、福島県立医科大学附属病院救急科副部長、福島赤十字病院院長などを経て、2022年から現職。

〈聞き手〉 青山 竜文 (あおやま たつふみ)

株式会社日本政策投資銀行設備投資研究所 上席主任研究員

(株)日本政策投資銀行設備投資研究所 上席主任研究員
1996年日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)入行。2005年米国スタンフォード大学経営大学院留学(経営工学修士)を経て、2006年よりヘルスケア向けファイナンス業務立ち上げに参画し、以降同業務に従事してきた。2021年(一財)日本経済研究所常務理事を経て、2022年より現職。著書に『再投資可能な医療』『医療機関の経営力』(きんざい)。