『日経研月報』特集より

社会的共通資本としての医療

2022年5月号

占部 まり (うらべ まり)

医師/宇沢国際学館 代表取締役

経済学者である父・宇沢弘文は医療を社会的共通資本の一つの制度資本として分類し、「豊かな社会に欠かせないもの(社会的共通資本)を市場原理主義から遠ざけることで、社会が安定し、豊かになる」と考えていた。今回の新型コロナ感染症の蔓延を通じ、多くの人が「医療が適正な価格で、着実に手が届くことの重要性」を肌で感じたのではなかろうか。感染症拡大を防ぐにあたり、医療機関へ金銭的なことを心配せずに受診することができるということは大きな力だ。父は「病院はそこにあるだけでいい」とも言っていたが、病院があり必要な時に受診できることの安心感は何物にも代えがたい。
父は医療の本質はサービスではなく信任であるとしていた。サービスと捉えると、人は必ず死ぬことが運命づけられており、死を望む人は本質的にはいないと考えられ、必ず破綻する。「信任」と捉えると、「医療者がいかなる時も最善を尽くす。」となり必ずできることがある。臨床研修医時代の自分は旅立ちが間近な患者を見守るなか、敗北感を感じることもあった。最善を尽くすということであれば、医療行為はできなくとも、患者のそばに行くことだけでも医療者としての役割となる。
社会的共通資本の管理運営は、専門家集団が高い倫理観と知識を持って、官僚的な支配としてではなく行うべきだとしていた。医療制度をどうするべきかは、医療者自身が本当に必要な医療とは何かをもとに組み立て、それを支えるシステムを考えるのが経済学者の役目としていた。門外漢の人間が憶測で制度を作るべきではなく、現場を経験している医師が自身の経験と倫理観で、その時代にあった制度を「その時々」で考えるべきとしていた。もし父が生きていた時代の経験・倫理観などで医療の管理・運営を規定すると、その後の時代における汎用性がなくなるので、あえて抽象的にするという姿勢を貫いたのではないかと考えている。最初にそれを聞いたとき、「ずるいなあ」とも思ったのだが、重要な考え方だと今は思う。
というのも、現在の保険医療制度は、結核・赤痢という感染症が死因の多くを占めていた時代にできた制度である。より早く医療を受けることが重要であり、国民皆保険やフリーアクセスという考え方につながっていく。しかし、やがて老衰が死因のトップになると思われる現代では人が亡くなる要因も複合的となっている。当然制度もアップデートが必要だ。
それに伴い、死生観も醸成していくことも大切と感じ、私は日本メメント・モリ協会(注1)を設立した。その直接のきっかけとなったのは、終末期に濃厚医療をしたために非常に苦しそうであった父の自宅での看取りと『呆けたカントに理性はあるか』などの著作が有名な大井玄先生が教えてくれた、その人の死ぬ力に任せる穏やかな看取りであった。
管理運営にあたっては医療の評価ももちろん重要で、医療者自身によるピアレビューが必要である。ある疾病の5年生存率を指標とするにも、難易度の高い患者を受け入れている病院を他と同じ尺度で測るのは適正ではない。チーム医療の評価も難しい。医療ミスの報告が多い医療施設であっても、報告する側の心理的安全性が担保されているから些細なミスでも報告できるといった背景があることがあり、実際にはチーム医療としては質が高いといったこともありうる。そうした実情を判断し向上の糧にしていくのは医師の専門家としての矜持であろう。
私は医師が「地域の人が健康に暮らすこと」に対してインセンティブを持ちうるシステムが望ましいと考えている。人々が健康になればなるほど収入が増えるシステムである。医師として地域に責任を持つというシステムにおいては「かかりつけ医」が重要だと感じている。専門医のみならず、地域のリソースとも緊密な信頼関係に基づく連携体制をしっかりと構築していく。そのようなプロセスのなかで、医療の望ましい配置が浮かび上がってくるのはないだろうか。
そのためには、健康という考え方をアップデートする必要も感じている。オランダからはじまった「ポジティヴヘルス」という考え方がある。健康を「病気がない状態」と捉えるのではなく、「困難な状況に立ち向かう能力」として定義している。生活習慣病をはじめとする日常生活に支障がない“病人”も増えている。今までの健康観では健康な人がほとんどいない。状態という静的なものから能力という動的なものに視点をシフトしていくことで、うつ病やがん患者も現在の健康観とは違う姿が見えてくる。
これからの医療、そして社会的共通資本としての医療を考えるうえでは、「医療がコミュニティの健康にどれだけ寄与できるか」ということを真剣に考えていく必要がある。

(注1)「死を想うことでよりよく生きる」を考える場として2017年7月に占部氏が立ち上げた協会。メメント・モリは、「死を想え」というラテン語。

著者プロフィール

占部 まり (うらべ まり)

医師/宇沢国際学館 代表取締役