医療と介護のサステナビリティ(第7回)
『サステナビリティの経済哲学』を貫く思考~医療と介護のサステナビリティ(第7回)~
2024年10-11月号
今回は本連載の特別編として、新著『サステナビリティの経済哲学』を2024年8月に岩波新書から上梓された松島斉氏にお話を伺います。松島氏の専門はゲーム理論で、特に繰り返しゲーム、メカニズムデザインに関するこれまでの学術研究は世界中の多くの専門研究者に知られ、高い評価を得てきました。
この新著では、数理経済学者で社会的共通資本の提唱者である故宇沢弘文氏(以下、宇沢先生)のゼミ生でもあった松島氏が、その学びを踏まえつつ自らの研究テーマを選んでいく過程が描かれているのですが、その後、長い年月を経て辿り着いた新たなシステムの構想が主題となっています(注1)。その枠組みは同書をお読み頂きたいのですが、今回はその枠組みの中でも前半部に出てくる幾つかの象徴的な言葉を取り上げ、同書を貫く思考を伺います。
1. サステナビリティの大義
-最初に、前著(『ゲーム理論はアート―社会のしくみを思いつくための繊細な哲学』2018年、日本評論社)からこの度上梓した新著の執筆に至った経緯を教えてください。
松島 前著はゲーム理論をある種道具として使い、経済のさまざまな問題をキュレートすることを意図して執筆したものです。これを書き終えた後、私自身は気候変動の問題に興味を持ち始めたのですが、それはまさに宇沢先生が関心を寄せていた領域です。
そして、この問題について現実はどうなっているのかと見ていくと、最初に注目されたのは国連での国際交渉であり、平和的にこの問題を解決することを目指した多国間主義が進んだのですが、その後何年経っても進展がみられませんでした。
これは私が専門とするゲーム理論から見ると「繰り返しゲーム」と呼ばれる領域の話でもあります。定期的に会合を開き、二酸化炭素の排出枠の取り決めをして、その実施動向を見るというプロセスですが、刑罰を設定するなどインセンティブのルールは含まれていません。
ただし「繰り返しゲーム」ではインセンティブの具体的な設定がなくても繰り返していくなかで自ずと刑罰のルールが生まれてくるという考え方があり、ゲーム理論の分野ではそうした前提でさまざまな研究が行われ、「囚人のジレンマが起こるような環境下でも繰り返しゲームでは協力ができる」という議論がなされてきました。私自身の研究業績も半分近くはそうした分野です。
ところが、現実の世界を見ると、単に多国間主義がうまくいかないということで話が終わるのではなく、更に良くないことが起こっています。時代は、「自らの国で独自で行う」ことを他国に押し付ける、というようなパワーポリティクスの世界に移行し、国際秩序に対する信頼が失墜する状況が生まれているのです。「繰り返しゲーム」でうまくいくと思っていたらそれは間違いで、それどころか協力の基礎となる秩序も危うくなっています。
宇沢先生は気候変動を考える際、大気そのものを社会的共通資本だと考えていたと思います。しかしこの流れからわかるのは、国際秩序もまた社会的共通資本であるということです。皆がその維持管理をして、良い利用をしなくてはいけない。そして大気と国際秩序の2つは深く関係しています。そうしたことを考えるなかで、「サステナビリティ」をコアに考えを組み立てる方向に進みました。
本書ではその「サステナビリティ」を中心に、経済のさまざまな問題、複数事案をキュレートすることを考えて執筆をしています。その過程では、良品計画が企業として「公益人本主義経営」を進められるなか、サステナビリティと関係していることからご支援いただけることとなり、2022年5月から寄付講座(注2)を開始しています。本書はその成果でもあります。
-本書では序盤に「サステナビリティの大義」という言葉が出てきますが、大義という言葉から本書を始められたのはなぜですか。
松島 大義といった場合、仁義、忠義、忠誠といった儒教的な思想をイメージする方が多いかもしれません。実際に、渋沢栄一氏に代表される「日本の近代化の過程で果たす道徳の役割」も国民の中では重要視されてきました。このことが日本の近代化の過程において、民間が一体となって即効性のある経済発展に力を発揮したことにも繋がっています。
一方で、本書で描くサステナビリティやコモンズの話は、そうした時代とは異なる時代背景での話です。現在は近代化過程とは異なり、公益と営利が共生する時代です。そうした状況を表現する際の土台作りが最初に必要であると考え、「大義」についてのプラットフォーム的な新しい概念を提示して、それを活用しました。
また、日本の近代化の過程では、民間が強い活力を有することと同時に、社会インフラを整備することも重要でした。ここでのインフラは「整備して作る」ものですので、整備されたインフラは「公共財」となります。ところが宇沢先生が仰っていたインフラは、公共財ではなく「コモンズ」ということでした。意味が異なるわけです。
コモンズとは維持し続けなくてはいけません。「今あるものが、自分の前の世代から続き、自分が死んだ後でも未来の世代に繋がる」という社会的、歴史的なものです。本書を執筆するうえで、このように公共財とコモンズとの違いを明確にしていく必要もありました。
2. 自律性や社会的信頼への視点
-本書に「公共のナッジが個人の自律性の侵害と低下につながる」との記載がありますが、サステナビリティと自律性の関係はどのようなものでしょうか。
松島 例えばスーパーマーケットで品物の並べ方が決まっていると消費者は手に取るものが決まってしまう傾向があります。何がどこにあるかをいちいち気にするのは大変ですので、これはすごく便利なことではありますが、個人の自律性をあまり刺激しません。このように「公共のナッジ」というのは、人をある方向に自然と向かわせるような側面があります。
一方、本書での大義というのは、非常に意識的なものです。「こうした問題もあることに気づくべき」であり、さらに「気づいて探求する」ことの重要性を示唆しています。探求することで社会や環境を考え、その背景にある因果関係を理解していくことになります。
そう考えると、サステナビリティにおいては「公共のナッジ」ではなく「気づき」が大事な要素となります。サステナビリティに貢献できる人を育てるにあたって、自分から意識的に気づきをもって問題に取り組む人を育てる必要があり、そうした人こそリーダーシップを発揮できると考えています。
-ここまでのお話は対象が個人でしたが、本書では、企業や組織などの社会的責任、社会的信頼についても書かれています。
松島 企業をどう捉えるかに関して、宇沢先生や岩井克人先生は「信任」という言葉で説明をされています。委託する人がいて、受託する人がいる。この受託先が企業なわけですが、その企業活動から利益を得る受益者がいる。この3つで構成されるフレームワークにおいて「受益者がいる」ということは、逆に言えば「受益者ではない人もいる」ということになります。さらに、特定の受益者グループに対して忠実な義務を果たすという枠組みには法的な枠組みも成立し、倫理的な義務も生じます。
ところが、サステナビリティにおける社会的責任とは、先述の「気づき」とも関連しますが、委託者と受託者が同じで、実際の行動も自分自身です。そうすると「受益者が誰か」ということになるのですが、この定義ができません。なぜなら、生態系自体は人間でもなければ、その維持は「特定の人のため」でもないからです。そうすると従来想定していたフレームワークを軸に営利企業のサステナビリティへの貢献を考えることは無理だというのが私の理解です。
また、社会的信頼という意味で、本書では医療制度についても取り上げています。例えばトリアージのプロセスが持続可能であるためには、医療提供者と社会全体との信頼関係が非常に重要です。その信頼関係を構築するには、プロセスの形成が民主的かつ透明であることや、多様なステークホルダーが関与すること、そしてコミュニケーションを図ることが軸になると考えています。これらが軸になるということは、かつての、近代からバブル期までの日本の経済・企業・組織とはイメージがかなり違いますので、本書ではその点を強調しています。
-従前との違いをもう少し詳しく教えてください。
松島 宇沢先生の時代はサステナビリティや環境問題、そしてそれに伴う社会問題について、一般市民の関心は低いものでした。しかし、そうした関心は時代と共に高まっています。ESG評価や認証制度や国際機関の取り決めなどにより、制度的な枠組みもたくさん開拓されて、一般市民の意識も変化してきたわけです。
このような時代において、企業が社会的責任を果たすことが経営戦略の軸となってきます。企業と消費者・投資家との距離が縮まり、この傾向が更に強くなっているわけです。
-そうしたなかで、コンセンサスの形成手法も変化していかなければならないという話ですね。
3. ケアの倫理と社会的アントレプレナー
-本連載が医療と介護を主たるテーマにしていることを踏まえ、次は松島先生が本書で書かれている「ケアの倫理」についてご説明いただけますか。
松島 少し図式的に話をします。例えば医療を市場の競争に委ねると医療費は上がり、お金を持っている人だけに医療を施す形になります。これで良し、とは出来ないわけで、低所得者にもサービスが受けられるようにしなければいけません。しかし低所得者からは十分なお金は取れず、その費用はどこかで賄わなくてはいけない。それをお金持ちから取ることにしたらお金持ちは賛成しない。ではどうしたらいいかというと、奉仕活動を行ってくれる人の自己犠牲に委ねるという構図になってしまいます。
医療・介護従事者はその構図の中にいるわけですが、この中でも特に介護という労働は低い社会的地位に甘んじており、これは非常に良くないことです。奉仕的な活動をして、これでいいと働いている方々が自らそのように思う一方で、もしそれがほかの人には勧められない仕事だと考えているとしたら、それは倫理的に問題であり、サステナビリティにとって重要な課題です。
こうした状況を改善させるステップの一つを本書では描いています。社会的責任を果たすという目標を持った企業を「社会的アントレプレナー」と称します。その企業が介護サービス、特に裕福な人向けの高齢者サービスを行い、その収益をもとに低所得者のサービスへ回す、という社会的目標を掲げる形を想定します。ポイントはここで、裕福な人向けの高齢者サービスを受ける方も「ちょっと損をする」わけですが、そうしたサービスを受けるかどうかは個人の選択に委ねることとしますので、これはマーケットの問題になります。マーケットを効率の側面だけではなく、社会的公正にもプラスに働く方向で考える、ということが重要です。
そして、社会的アントレプレナーの企業が活動することで、介護従事者の労働環境や賃金が向上し、同時に倫理観も変わり、奉仕の精神を主に活動する介護従事者以外の層も労働市場に入ってくる、というステップを描いています。
本書では、ケアの倫理を「ケアをする人とケアを受ける人の間に人間的なつながりを深めることを尊重する全人的なアプローチ」として定義しました。ケアをする人もケアを受ける人も全人的にみな対等である姿を想定しています。これこそが全ての職業が目指す姿だと考えています。勿論それは簡単には到達できないでしょうが、それを諦めないことが大切です。
4. 経済学の在り方
-社会的地位に関する話として、「人材の経済学」に関する最近の動きも本書の終章で触れられています。
松島 宇沢先生はジョン・デューイを尊敬していました。デューイはリベラルな学者ですが、その後ミルトン・フリードマンという学者が出てきました。彼はネオ・リベラルと称されます。
デューイは「教育論」で著名ですが、この思想が実際にアメリカでどのように機能しているかというと、実はアメリカ的資本主義の構造的安定に貢献しているという見方があります。
では、宇沢先生が尊敬していたデューイのリベラリズムとその後のネオ・リベラリズムにそれほど距離はないのではないかというと、そうとはいえません。もしデューイがフリードマンを同時代人として読んでいたら、いいと思うはずはないですよね。こうしたある種の矛盾を踏まえつつ、宇沢先生は「社会的共通資本としての教育」という概念で整理をされました。
それを私は本書で「サステナビリティ」という形で表現しています。ただし、その中でフリードマン以降のリベラリズム自体は思ったほど悪くないとも考えてはいます。例えば、女性の社会進出の話などを「人材の経済学」として扱うアプローチは、やはり重要なわけです。しかし、その分析手法だけでは社会の構造的問題にまでは踏み込めないという課題はあります。
-「人材の経済学」的分析と、サステナビリティの折衷的な展開はあり得るのでしょうか。
松島 勿論それはあると思っています。ただ、現在そうなっていないとすると、それは経済学の理論的発展が滞っていることが原因でしょう。本来、経済学の理論として詰めていかねばならない事柄があっても、論文を書く際には新規性のある定理を証明する必要があるために形式論理的な貢献が重視されてきました。しかし、経済学における理論の本質は、形式論理の追求だけでは表現できないと考えます。そこで、本書の執筆やセミナーの実施等を通じたキュレーションが重要なわけです。その意味では、学術論文の執筆と同じかそれ以上に、この本も本気で書き上げました。
社会問題を深く追求していく際にはこうしたアプローチが重要で、もしその中でゲーム理論が役に立つのであれば取り入れればいいし、ゲーム理論が役に立たないこともある。ゲーム理論は、その場合の一つのピースという位置付けだと思います。
5. 「新しい資本主義」と「新しい社会主義」の組み合わせ
-本書では、システムを構想するうえで「新しい資本主義」と「新しい社会主義」が主題となっていますが、これらとサステナビリティとの関わりについて教えてください。
松島 「新しい資本主義」では、消費者も投資家も従業員も皆、サステナビリティに関心があるため、大義を持って実際に行動するような組織が必要となります。そのためにはやはり教育が重要です。最近の日本の教育を見ていても、サステナビリティが低学年の頃から(科目というよりは)色々な授業の中に入り込んでいます。こうした流れを実際の経済活動に結びつけることが大事です。
また、実際には国際システムが引き続き重要です。パワーポリティクスは続くと思いますが、一方で改めて多国間主義や平和主義への動きも出てくると思います。
ところが実際には、「他国が二酸化炭素の排出量削減をしてくれることはとても嬉しいが、自国では取り組みたくない」というフリーライダー問題が生じてきます。そして、そこで起きる大きな混乱や対立構造はこれからも続くでしょう。しかし、そういった状況に向き合うレジリエントな仕組みを作っていかねばなりません。
「世界は混乱しているけれども、とりあえずはやれている」という状況を支えていくには、サステナビリティに高い関心を持ち続けることが重要で、このことはサステナビリティを侵害しない資本主義を作ることと同義です。「新しい資本主義」があってこそ、国際協調の仕組みがレジリエントになるということです。
もう一つの話として、私は本書で「新しい社会主義」という概念に触れていますが、これはどちらかというと国の体制ではなく、国際システムの新しいレジームの話で、グローバルなモラルハザードに関わる問題です。そして「新しい資本主義」は、どちらかというと国内の新しいレジーム作りの話であり、局所的なテーマとなります。両方のレジームは相互に補完するものであり、どの国も両方のレジームに深く関与することで初めて地球全体を支える形になるわけです。
従って、このような協力を行う仕組みについて共通の価値観をグローバルに持つことが本質的に重要なことであり、その共有価値観として、サステナビリティを捉えています。
(注1)本稿ではその新しいシステムの根幹である「新しい資本主義」と「新しい社会主義」自体を解説していませんが、その構想の一端は『日経研月報2022年11月号』に講演録(「社会的共通資本のための制度設計」)としてまとめられています。https://www.jeri.or.jp/survey/%e7%a4%be%e4%bc%9a%e7%9a%84%e5%85%b1%e9%80%9a%e8%b3%87%e6%9c%ac%e3%81%ae%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ae%e5%88%b6%e5%ba%a6%e8%a8%ad%e8%a8%88/
また最新の論考については、新著『サステナビリティの経済哲学』をご覧ください。
(注2)東京大学大学院経済研究科 社会的共通資本寄付講座(SCC)