地域の現場から
峠を訪ねて ~越後放浪雑記~
2025年6-7月号
高校生の頃、司馬遼太郎の小説『峠』に出合った。坂本龍馬や新選組といった有名どころは知っていたが、河井継之助はこの本を通して初めて知った。長岡をスイスのような独立公国ならしめんとする発想、当時の日本に3門しかないガットリング砲を2門備えて「武装中立」を目指していたことなどに、新鮮な驚きを感じたことを覚えている。昨年6月に初めての勤務地となる新潟に着任し、改めてこの本を読み返した。「峠」の世界を訪ねてみたいと思い立ち、愛車GIOS(自転車)を携えて長岡へ向かった。
〈その1:前島神社(新潟県長岡市前島町)〉
新幹線で長岡駅まで輪行して、信濃川沿いの河川敷を走る。眼下に広がる一面の稲穂。日本の穀倉地帯、越後平野。この風景は、江戸期以前から注ぎ込まれた灌漑・治水のための膨大な労力のおかげ、いわば積年のインフラ投資の賜物だそうだ。最初に訪れたのは前島神社。「小千谷会談」が不調に終わり新政府軍との衝突が避けられない状況となり、継之助はここを守衛していた藩士川島億二郎を訪ね、議論の末に開戦を決断したという。「両軍の調停役となり、日本国内における内乱をこれによって終媳させてしまいたい」(「峠」より)との意気が叶わず、戦火が避けられない事態を選択せざるを得なかったその胸中を思い、「開戦決意の地」の碑に手を合わせる。
〈その2:小千谷の錦鯉(新潟県小千谷市浦柄)〉
長岡と小千谷の境に位置し、北越戊辰戦争の中で最も激しい攻防の舞台となった榎峠は、2004年10月の中越地震で岩盤地滑りにより崩落。その近くにあり崩落を免れた朝日山古戦場を目指して山古志に向かう国道291号線を進む。沿道には、多くの錦鯉の養鯉場が連なる。このあたりの錦鯉は世界的にもファンが多く、新潟県の農林水産物の輸出額52.7億円(2023年度)の6割超の33億円を錦鯉が占めていることを知って驚く。江戸時代、棚田の休耕田で食用の鯉を養殖中に現れた突然変異の「変わりもの」が、錦鯉の始まりとされる(諸説あり)。今では、成田や中部国際から弾丸ツアーでやって来る海外のバイヤーも大勢いると聞き、新潟のインバウンド観光の展開可能性も感じる。気づけば上り坂がきつくなり、自転車での朝日山登坂は泣く泣く断念する。
〈その3:越の大橋 司馬遼太郎「峠」文学碑(新潟県小千谷市高梨町)〉
この日の一番の目的地である、「峠」文学碑。信濃川の妙見堰に併設された越の大橋の西岸にある。取水、治水、水力発電に伴う水量調整など多目的な機能を持つこの堰と大橋が1992~93年に竣工した際に石碑を建立することとなり、榎峠を望む場所でもあることから、経緯の末に司馬遼太郎にお願いすることになったという。市の予算が限られる中、司馬氏は快諾し、書下ろしの碑文が刻まれた。碑文には、「武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない」「「峠」という表題は、そのことを、小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである」とある。越の大橋越しに峠を見上げながら、ここでかつて国を二分する激戦があったこと、それが近代日本の出発点となったことを想い、碑文とともに、道中で求めた草餅とカレーパンを味わう。この後長岡温泉で汗を流し、この日は長岡を後にする。
因みに、この妙見堰の上流には小千谷発電所、小千谷第二発電所、千手発電所からなるJR東日本の「信濃川発電所」がある。水力発電により、朝夕のラッシュ時にあわせて電力を首都圏に供給し、通勤の足を支えているという。
〈その4:慈眼寺(新潟県小千谷市平成)〉
北越戊辰戦争の行方を決めた小千谷会談の場、そして長岡から会津への継之助の足取りを巡るため、今度は車で小千谷を再訪。まず会談の舞台となった慈眼寺へ。「継之助の外交を一個の峠とすれば、談判というのは峠の頂上であろう」(「峠」より)。慈眼寺に向かう道のりでの高揚感、二十四歳の土佐藩士岩村高俊と対峙した慈眼寺の空気感、幾度となく嘆願陳情するも叶わず不調に終わって引き上げる帰路。当時を保存・再現する「会見之間」で、音声解説や資料を見ながら、その胸中を想像する。慈眼寺から長岡への途上、先に紹介した前島神社で、継之助は長岡藩の進む道を決めた。
〈その5:八十里越(新潟県三条市大谷)〉
長岡城下での激戦の末に左脚に流れ弾を受け、会津へ退却する継之助と長岡藩勢。その5,000人を超える一行が辿った道、八十里越。新潟県三条市から魚沼市を経て福島県只見町に至る峠道は、実際の距離は八里(約31km)ながら、その険しさゆえに一里が十里にも感じられるほどの難路だったという。1970年に国道289号線に指定されたが、県境付近の19.1kmは通行不能区間であり、新たな道路整備事業が1986年より事業化された。しかし、豪雪により冬季は雪に閉ざされ年間7か月程度しか工事が出来ないため40年近くを経過した今なお工事が続く。慈眼寺から新潟県三条市を経てR289に入り、エンジンの回転数を上げて坂道を登っていくと、大谷ダムを超えた坂の途中で行く手を門が遮る。今なお立ちはだかる八十里越。会津への道中、継之助は――八十里 こしぬけ武士の 越す峠――と詠んだ。難路を越えるも、越えられなかった「峠」を想ったのか、、、現代の八十里越は、数次の再評価を越えて工事が進められ、2026年秋から翌年夏にかけて開通予定である。通年通行可能となり、災害時の緊急輸送道路の確保や地域間交流への効果が期待されている。開通したら紅葉の時期に再訪したいと思い、来た道を引き返す。
〈その6:医王寺(福島県南会津郡只見町塩沢)〉
継之助のお墓がある会津領塩沢村(現福島県只見町)の医王寺を目指して、JR只見線に並行する国道252号線を東に進む。八十里越を南側に大きく迂回してきた訳だが、このR252の県境の峠もかつて「六十里越」と呼ばれた難路であり、今でも冬季は4月末まで通行止めとなる。
死の直前継之助は、塩沢村で松蔵に命じて自らの棺と火葬の準備をさせたという。「松蔵、火を熾んにせよ」(「峠」より)。遺骨は医王寺と、若松城外の建福寺を経て藩主牧野家の菩提寺である長岡城下栄凉寺に納められている。墓前で手を合わせ、近隣にある「河井継之助記念館」に閉館間際に駆け込み、再現されている「終えんの間」を見る。山あいの谷川沿いの集落は、日が落ちるのが早い。喧騒を離れて、ゆっくり休むには良い場所だろう。
塩沢村に入る直前、同行していた寅に継之助は、「このいくさが終われば、さっさと商人になりやい」(「峠」より)と言ったという。寅はその後、外山脩造として大阪経済界で活躍。継之助や寅は、今日の長岡、新潟、そして日本をどんな目で見ているだろうか。夢見た姿か、それを超えるものか、あるいは「まだまだやれる」と思っているか、、、
〈放浪の後で思ったこと〉
気ままな歴史散歩には、予想外の気付きや発見があった。時代の節目で継之助が辿った土地を訪ね、それぞれの場所やシーンで彼が何を思ったかを想像して、「峠」の世界に没入する。今ののんびり穏やかな街角からは想像もつかない往時を想う。小説、映画、アニメのファンが「聖地巡礼」する気持ちが、よく分かった。
また、個々の史跡や観光地が一つのストーリーで繋がることで、理解度や満足度が深まり、線や面として地域の観光価値が高まることを実感した。佐渡金山で有名な相川地区の観光ガイドによるまちあるきツアーに参加した時も同様に感じたし、近時グローバルに注目されているアドベンチャーツーリズムも同じ文脈だろう。錦鯉を目当てに来たインバウンドの方々にも、その背景にある棚田や新潟の食文化なども楽しんでもらうとよい。灌漑施設や水力発電といった、水に纏わる越後のインフラ施設にも物語性を感じる。「大人の社会科見学」向けの地域資源がたくさんある、新潟のポテンシャルを改めて感じる機会にもなった。
次回は、地理的・歴史的に密接でありながら趣きを異にする新潟と会津の酒と肴を比べて味わうぶらり旅にしようと思っている。
〈参考資料等〉
峠:司馬遼太郎(新潮社)
小千谷市ホームページ
全日本錦鯉振興会ホームページ
令和5年度県産農林水産物の輸出実績:新潟県農林水産部(2024年7月3日)
首都圏の通勤ラッシュを新潟から支える JR東の信濃川発電所:産経新聞(2021年6月5日)
道路事業の再評価説明資料〔国道289号八十里越【防】〕:北陸地方整備局(2021年12月)