『日経研月報』特集より

日清食品HDが挑む人的資本経営 ~CHROが語る企業価値向上の鍵~

2025年8-9月号

正木 茂 (まさき しげる)

日清食品ホールディングス株式会社 執行役員 CHROグループ人事責任者

日清食品ホールディングス株式会社は世界初のカップめん「カップヌードル」等をはじめ、新たな食の創造を通じて世界の食文化を革新する即席めんのパイオニア企業です。同社は、2024年3月に食品企業として世界で初めて、人的資本に関する情報開示の国際的なガイドラインである「ISO30414」を取得し、「Human Capital Report」を発行したほか、「人的資本調査2024」にて「人的資本リーダーズ2024」、「人的資本経営品質ゴールド」に選定される等、人的資本経営に対する取組みが高く評価されています。この度、同社の人的資本経営を主導する執行役員・CHROグループ人事責任者の正木茂氏に、その具体的な取組みやCHROの役割等について話を伺いました。(本稿は、2025年4月15日に行ったインタビューを基に弊誌編集が取りまとめたものです。)

1. 人事部門が果たすべき役割

聞き手 正木様は、Chief Human Resource Officer:CHRO(以下、CHRO)としてさまざまな人事改革に取り組まれています。はじめに、人事部門が果たすべき役割についてお考えをお聞かせください。
正木 私は当社に入社して以降、財務経理や人事、海外現地法人でのCFO、基幹業務システムの刷新プロジェクト等を経て、2019年に部長として13年ぶりに人事部に戻り、2022年からCHROを務めています。復帰当初、人事が抱える課題の多さに驚きました。人事部のタスクを「今日の仕事」、「明日の仕事」、業務範囲を「人事機能」、「会社全体」の4象限に分けると、以前の人事部は、「今日の仕事」×「人事機能」の1つの象限だけでしたが、現在はそれに加え、明日の人事機能をつくり、さらに会社環境を変える、社員の意識を変えるといった、他の3つの象限の業務も対象になっています(図1)。
また、人事機能は3つに分類できます。1つ目は、トラブル火消し対応等の「モグラたたき人事」、2つ目は、人事制度や仕組みの整備・運用を担う「インフラ人事」、3つ目は、事業戦略を人事戦略に落とし込み、他社との差別化・優位性を構築して事業戦略の達成をサポートする「戦略人事」です。
これら人事機能に求められる能力は、それぞれ異なります。「戦略人事」は将来のありたい姿と現実のギャップを埋める能力が、「インフラ人事」はミスなく生産性の向上を実現する能力が求められます。また、「戦略人事」は、現実に引っ張られず、大胆なありたい姿を描く青臭さが必要で、「インフラ人事」は現実離れせず、従業員の気持ちを理解しながら粘り強く調整する黒臭さ(泥臭さ)が必要です。これからの人事パーソンはそれらを併せ持った「青黒さ」が求められます。

このように、人事部門に求められる機能や能力が多岐に亘り高度化しているにもかかわらず、私が13年ぶりに戻った当時の人事部門は、業務の9割が「モグラたたき人事」や「インフラ人事」の対応に追われていました。「戦略人事」に割ける時間が1割しかないことは非常に大きな課題だと感じ、必要な人員を確保すべく増員の判断をしました。人事部門が自らの人件費増加を恐れず、必要な改革を進める重要性を改めて実感しています。
さらに、人材ポートフォリオの見える化にも注力しました。長期的な経営目標の達成には、多様な優秀さを持つ人材が必要です。しかし、人材は資金とは異なり、感情があり、コンディションによってパフォーマンスが変動します。また経験によりスキルや能力も変動します。その状態を可視化して、個々にあった育成・配置を通して個人と組織の成長に繋げることが不可欠です。そのようなタレントマネジメントを実現するために、専任組織を組成しました。集中して取り組ませることにより、数か月で状態の見える化を実現しました。
やはり「戦略人事」は片手間ではなく、専任体制が必要だと実感しています。
聞き手 CHROと人事部長の役割の違いをどのように捉えていますか。
正木 人事部長の役割は「もぐらたたき人事」や「インフラ人事」を担うのに対し、CHROの役割は、組織変革、経営戦略と連動した「戦略人事」を担います。社内の意思決定機関である役員会等では、CHROとして人事施策が経営戦略とどのように結びついているかを丁寧に説明し、関係者の理解を深めています。

2. CHROの具体的役割

聞き手 次にCHROの具体的な役割について、ご説明いただけますか。
正木 先述の通り、現在の人事部門は、経営戦略と連動した人事戦略が求められています。会社が成長すると、さまざまなステークホルダーに恩恵がもたらされます。そのため、会社の目標は将来キャッシュフローに依拠する企業価値を高めることと捉えています。企業価値は、キャッシュフローの「量=金額」と「生み出し続ける時間=年数」の積で計算されます。この企業価値を高めるには、「儲ける力」と将来にわたり「儲け続ける力」の向上が必要です。財務情報だけではこれを十分に説明できず、非財務情報がその補完として重要な役割を果たします。

また、顧客ニーズや市場の変化により、現在のビジネスモデルや製品がいつまでも同じ価値を提供できるわけではありません。どのようなビジネスでも賞味期限があり、新しいことに取り組む必要があります。具体的には、既存事業の「深化」と新たなビジネスチャンスの「探索」により、持続的に企業価値を高めることが不可欠です。「深化」の例としては、「カップヌードル」の減塩化や高たんぱく・低糖質化が挙げられ、「探索」の例としては、33種類の栄養素とおいしさの完全なバランスを追求した「完全メシ」の開発を中心とした新規事業の推進が挙げられます。
このように事業環境が変化する中において、人事のミッションは、人的資本を適所適材で最大限に活用し、企業価値の向上に貢献することだと考えています。一方で、社員には一様の能力ではなく、領域ごとに異なる能力が求められます。だからこそ、それぞれに求められる優秀さを定義し、人材を確保・定着させる施策を通じ、その効果と期待を関係者に説明することこそがCHROの役割だと考えています。
人的資本とは「将来も儲け続ける力」を備えるものであり、すぐにはリターンが見えないのは当然です。単年度でコストとリターンを把握する財務会計と違い、人的投資へのリターンは複数会計年度にまたがるため計測しづらいのです。
この点を経営者が理解しなければ、人的資本経営は進みません。私は、人事部門のメンバーにも、人的資本は経営そのものであり、自信を持って取り組むよう繰り返し伝えています。

3. 人事部門の試みとその成果

聞き手 続いて、人事部門の具体的な取組みについてお聞かせください。
正木 私は、当社を選んで働いてくれる従業員を大切にし、働きやすい環境を整えることで、定着してもらうことが重要だと考えています。人材を企業価値の源泉と捉える姿勢は、当社グループのCSV経営における3つの柱である、Mission(創業者精神)、Vision(「EARTH FOOD CREATOR」)、Value(大切な4つ“Happy・Creative・Global・Unique”の思考)に表現されています。またMissionを果たし、Visionを実現するために、Valueとあわせて、「日清10則」という行動指針を定めており、社員一人ひとりの行動の拠り所としています。これらの企業理念については、社内報、朝礼、トップからのメッセージ、職場ミーティング(職場単位でMission、Vision、Valueについて議論する場)などで繰り返し伝えます。ほかには、「チキンラーメン」の誕生日である8月25日付近には社員が小売店の店頭で対面販売を行い、食品メーカーの社会的使命を考える場としています。また、新任管理職向けにはアウトドアの中で火起こしをしてラーメンを作って食べるサバイバル研修を実施する等、ユニークな施策も展開しています。

当社が最も大事にしていることはクリエイティビティです。当社のMission、Vision、Valueを体現した創造的な仕事を表彰する「NISSIN CREATORS AWARD」を年1回実施し、社員の創造的な仕事を理解し、互いに称え合い高め合う文化を築いています。これらの取組みは、社員が会社の「私たちらしさ」に共感し、やりがいと誇りをもって長く働き続けられるよう支援することを目的としています。
理念浸透を目的としたユニークな施策の一つひとつが、全体の企業価値向上につながっていることを説明するのも、人事部門の重要な役割です。
また、当社が掲げる中長期成長戦略を遂行するためには、社員の育成だけでなく、即戦力となる専門人材やグローバル経営人材などさまざまなバックグラウンドを持つ外部人材の登用・活躍が必要なため、新卒採用のみならず、キャリア採用も加速しています。現在は社員の半数以上をキャリア採用による社員が占めています。
こうした社員構成の変化に対応して、人的資本経営の重要なテーマの1つに「多様な人材の採用とオンボーディング」を新たに加えました。その具体策として、キャリア採用者には「カップヌードルミュージアム 横浜」を活用し、展示見学や「チキンラーメン」の手作り体験を通じて創業の精神や企業のMission、Vision、Valueを学ぶ理念研修やオリエンテーションを実施しています。また、仕事・プライベートに関して、ワクワクする/しない、できる/できない、を記載した「ワクワクマップ」というシートを、社員間の相互理解を促進するツールとして用意しました。私も作成して定期的に更新していますが、自分の変遷を自ら感じ取ることができます。他には、人材育成のための社内大学「NISSIN ACADEMY」の設立、職能等級制度とJob制度のハイブリッド型である「日清流Job型」制度の導入も挙げられます。この制度では、従来のマネジメントコースに加えて、専門性を活かすプロフェッショナルコースを設定した他、各ポジションの就任要件を定義し、社内システムで公開しています。
この様に社内外の環境変化が激しく、職場マネジメントの難易度が高まる中において、社員と会社、社員と仕事の結びつきを高め、生産性を向上することを目的に職場の状態に関する匿名アンケートを実施しました。結果は予想以上に厳しいものでしたが、この現状を見える化しなければ、改善は進みません。管理職全員にワークショップに参加してもらい、意識改革に取り組んできました。このような地道な努力がベースとなり、さまざまな施策が実行できる基盤となっています。
聞き手 正木さんが発案された、特に思い入れの強い施策を教えてください。
正木 どれも思い入れのある施策ですが、ひとつ挙げるなら、上司に求められる本質的な役割は何かを伝えることを目的とした「育て上手アワード」の企画・開催です。「あなたが社会人になってから、この人に育てられたと思っている人を挙げ、その理由も教えてください」というアンケートを実施しました。理由を見ると、「明確な指示をしてくれる」という回答が多かったのですが、「考えさせてくれた」、「ほめてくれた」、「傾聴してくれた」という回答も一定数ありました。上司は、全ての面において部下より優秀である必要はありませんし、そうなることは不可能です。実際に表彰とアンケート結果の公表を通じて、将来マネージャーになった際の部下育成を考えるきっかけになることを期待しています。

4. 他企業への示唆

聞き手 正木様のお取組みは、人事部門の先進事例として、他の企業にも大変参考になると感じます。他の企業への示唆も踏まえ、特に工夫された点があれば教えてください。
正木 まず、人的資本に対する投資と効果の関係を経営陣にしっかり理解してもらうことが重要です。先述した企業価値を金額と時間の軸で表した図は有用だと感じています。
人事部門の行うべき施策は増えており、少人数での対応には限界があります。人を集めて組織を整えなければ、戦略人事には十分に取り組めません。人事部門の持続可能性を確保する観点から、人事に精通した専門職が企業には必要です。
また、大学で専門的に研究されている教授の皆様などとの交流を通じて最新のアカデミックな理論を学ぶことも重要です。個別の人事施策に関して異論や反論が社内で生じることもあると思いますが、アカデミックの理論を用いて説明できれば社内のコンセンサスを得やすくなります。私は、人事部門に再配属後に立教大学大学院を修了し、人材開発・組織開発を学び直しましたが、大学院での学びが、さまざまな取組みを進めるうえで大変役に立ち、大きな自信に繋がっています。
今回の話を通じて、日清食品ホールディングスでの取組みが一つの参考となり、皆さまの会社でも実現できる一助になれば幸いです。

著者プロフィール

正木 茂 (まさき しげる)

日清食品ホールディングス株式会社 執行役員 CHROグループ人事責任者

1993年、日清食品株式会社に新卒入社。経理課からキャリアをスタート。財務部、人事部を経て、米国日清にCFOとして勤務。帰国後、基幹業務システム刷新プロジェクトリーダー拝命。その後、2018年財務経理部長、2019年人事部長、2021年4月CHRO、2022年4月に執行役員就任。