『日経研月報』特集より

人的資本経営の再考

2025年8-9月号

鶴 光太郎 (つる こうたろう)

大妻女子大学データサイエンス学部 教授

人的資本経営というワードが近年、注目される背景としては、政府の人的資本の情報開示に向けた取組みが挙げられる。このため、人的資本経営を巡る議論は、まず、「情報開示ありき」、そのためにどういう取組みを行うべきかという組み立てが多かった印象がある。しかし、これは、例えて言うならば、「試験があるから勉強する」といった本末転倒の取組みと言わざるを得ない。女性管理職比率、男性育休取得率、男女間賃金格差、といった開示が義務化された指標はともかく、これらの指標以外については、個々の企業がそれぞれの環境や目的・戦略に応じて、人的資本経営に従事し、その結果として企業が投資家にアピールすべき情報開示項目が明確になってくるのが本来のありうるべき姿であろう。
筆者は、人的資本経営に、3つの重要な構成要素があると考えている。企業の業績に直結する「人的資本の水準拡大」と「人的資本の稼働向上」の二本柱及びこれらを下から支える「人的資本経営のインフラストラクチャー」である。
まず、「人的資本の水準拡大」とは、教育訓練・能力開発(=人への投資)などで能力・スキルを向上させ、人的資本の水準を拡大させることだ。近年、注目が集まるリスキリングもこの範疇に入る。人的資本経営の代名詞でもある人への投資だが、従業員の成果に反映するまでの時間がかかるなど課題も多い。
一方、「人的資本の稼働向上」とは、既にある能力・スキル、つまり、人的資本は一定でも、それを所与に人的資本の稼働率を向上させることで労働者のパフォーマンスを最大限発揮させ、ひいては企業業績を向上させるという考え方である。人的資本の稼働率を示すものとしては、従業員のウェルビーイングが挙げられる。ウェルビーイングの中でも、近年注目を集めているのは、仕事や組織に対するコミットメント・関与の強さを示す、エンゲージメントである。従業員のエンゲージメント調査の定期的実施も大企業を中心にかなり普及してきている。
従業員のウェルビーイングを向上させるためには、賃上げはもとより、在宅勤務、フレックス制度などの「多様で柔軟な働き方の選択」、従業員の健康管理を経営的視点・戦略的視点から行う「健康経営」、企業の社会に対する存在意義、貢献のあり方を明文化してその浸透を図る「パーパス経営」などが有効であること、また、そうした取組みが企業業績にもプラスに働くことを筆者のグループによる研究で明らかにしている(日経「スマートワーク経営」研究会報告書各年版)。
こうした人的資本経営の2つの柱が機能するためには、それらを支える土台、つまり、「人的資本経営のインフラストラクチャー」を整備することが必要不可欠である。インフラの1つ目はジョブ型雇用、特に、職務限定型、プロ型の正社員制度の導入である。リスキリングなどの「人的資本の水準拡大」を効果的に実施しようとすれば、個々の従業員それぞれに必要な能力・リスクを見極めたうえで、個別に能力開発・研修を行う必要がある。その場合、得られた能力・スキルが次の仕事に活かすことができることが前提となる。しかし、日本の大企業に典型的にみられるメンバーシップ型雇用では、自分のキャリア形成は企業依存にならざるを得ない。キャリアの自律性が担保されるジョブ型が導入・普及するとともに、自らが望むポストや研修に対し、希望を表明し、それが考慮・実現されるような企業風土、いわば、「手上げの文化」が企業内で醸成されていくことも必要だ。
インフラストラクチャーの2つ目の要素は新たなICT・デジタル化、ロボット・AIなどの新たなテクノロジーの活用だ。仕事の内容やプロセスを効率化するなどを通じて従業員のウェルビーイングの向上につなげることが可能だ。また、リスキリングが近年注目されているのは、こうした新たなテクノロジーを活用するために必要な人的資本のバージョンアップが意図されているからである。
人的資本経営の最終目標は、言うまでもなく、企業のパフォーマンス、企業価値の向上である。「人的資本の水準拡大」、「人的資本の稼働向上」、「人的資本経営のインフラストラクチャー」といった取組みが最終的には企業価値の最大化につながるようにそれぞれのあり方を不断に見直していくことが求められている。

著者プロフィール

鶴 光太郎 (つる こうたろう)

大妻女子大学データサイエンス学部 教授

1960年東京生まれ。84年東京大学理学部数学科卒業。
オックスフォード大学D.Phil.(経済学博士)。
経済企画庁調査局内国調査第一課課長補佐、OECD経済局エコノミスト、日本銀行金融研究所研究員、経済産業研究所上席研究員、慶應義塾大学大学院商学研究科教授、を経て、2025年4月より現職。
経済産業研究所プログラムディレクターを兼務。
内閣府規制改革会議委員(雇用ワーキンググループ座長)(2013~16年)などを歴任。
主な著書 『人材覚醒経済』、日本経済新聞出版社、2016(第60回日経・経済図書文化賞、第40回労働関係図書優秀賞、平成29年度慶應義塾大学義塾賞受賞)、『日本のマクロ経済分析―低温経済のパズルを解く』共著、日本経済新聞出版社、2019、『AIの経済学―「予測機能」をどう使いこなすか』、日本評論社、2021、​『日本の会社のための人事の経済学』、日本経済新聞出版、2023 などがある。
その他の主な著書 『雇用システムの再構築に向けて―日本の働き方をいかに変えるか』、編著、日本評論社、2019。『非正規雇用改革―日本の働き方をいかに変えるか』、樋口美雄氏、水町勇一郎氏との共編著、日本評論社、2011。『日本の経済システム改革―「失われた15年」を超えて』、日本経済新聞社、2006。『日本の財政改革―「国のかたち」をどう変えるか』、青木昌彦氏との共編著、東洋経済新報社、2004。『日本的市場経済システム―強みと弱みの検証』、講談社現代新書、1994。