『日経研月報』特集より

明日を読む

「経済学の実験場」としてのスポーツ

2025年10-11月号

宇南山 卓 (うなやま たかし)

京都大学経済研究所 教授

近年、スポーツと関連した現象を分析する応用経済学の一分野である「スポーツ経済学」が発展している。スポーツ市場の構造、スタジアムなどの公共投資、地域経済への影響、選手の労働市場などの伝統的な経済学を応用したテーマだけでなく、サッカーにおけるPK戦に関する戦略のような競技そのものの分析も対象となる。2000年ごろから注目されるようになり、現在では国際学会も存在しJournal of Sports Economicsという学術雑誌も刊行されている。
この分野が注目されるきっかけの一つが、2011年公開の映画「マネーボール」である。成績不振のメジャーリーグの貧乏球団オークランド・アスレチックスを舞台に、GMであるビリービーンが、データ重視のチーム運営理論と出会い、それを実践することで、20連勝というリーグ新記録を達成するまでに至ったという実話に基づくストーリーである。
改革の基礎になったのは、アメリカの統計学者ビル・ジェームスが提唱し普及させた、「セイバーメトリクス」である。野球分析団体「SABR(Society for American Baseball Research)」が実践していたプレーや選手の価値を統計的・客観的に捉える手法である。打率や打点、勝利数といった伝統的な指標ではなく、より詳細に得点や勝利への貢献度を定量化するものである。従来の指標では見逃されていた選手の「真の価値」を見抜き、低予算で優秀な選手を集め、強いチームを作ることに貢献したとされる。大谷翔平選手の活躍もあり、日本でもOPS(出塁率と長打率の合計)やWAR(勝利貢献度)などの指標を耳にする機会も増えた。
セイバーメトリクスは、いわば近年のデータサイエンスの先駆けである。しかし、それだけなら、野球という巨大な市場ではあるが特定のスポーツの見方を変える程度のインパクトしかない。
それに対し、近年のスポーツ経済学は、経済学でスポーツを進化させるのではなく、スポーツで経済学を進化させようとしている。分析対象としてのスポーツには、経済学の仮説を検証する上で望ましい性質が多くあり、経済学の発展に資すると考えられている。
特に、人間が「合理的」に行動するかという経済学の根本的な仮定の検証に重要な役割を果たす。合理性とは、目的に対して最も効果的な手段を選択することを意味する。しかし、実際の経済行動では目的自体が曖昧なことが多い。たとえば、企業の社会貢献活動は、短期的には利潤を最大化していないように見える。ある経済行動が本当に合理的かを判断するのは容易ではないのである。
その点、スポーツ関連の行動は極めて明快である。勝利、あるいは記録更新が明確な目標として存在するため、選手やチームの行動がその目的に対し合理的であったかは比較的正確に評価できる。しかもスポーツ関連では、極めて高い品質のデータが存在するケースが多い。選手のプレー内容や試合結果、報酬、移籍履歴に至るまで、経済学者にとって理想的なほど精緻な記録が蓄積されている。
置かれた環境で人々がどのように行動するかを観察するのに、近年では「実験経済学」も活用されてきたが、スポーツデータは(プロであれば)実際に金銭的な報酬をかけた真剣な選択であり、仮想的なラボでの行動よりも人間の合理性の検証に適している。
さらに興味深いのは、スポーツでは外的なルール変更が比較的頻繁に発生する点である。これにより「因果推論」の手法を応用できる。たとえば、サッカーのオフサイドルールの変更が選手の行動にどのような影響を与えたか、あるいはバスケットボールにおけるスリーポイントシュートの導入が試合全体の戦術や得点パターンをどう変化させ、選手の価値にどのような影響を与えたかを、統計的に厳密に検証することができる。
その意味で、スポーツは今や人間の意思決定や制度の効果を観察できる「経済学の実験場」として学問的な価値を持っているのである。スポーツ経済学の成果は、スポーツの現場を超え、ビジネスの世界や個人の意思決定にも少なからぬ示唆を与えてくれるだろう。

著者プロフィール

宇南山 卓 (うなやま たかし)

京都大学経済研究所 教授

京都大学教授、博士(経済学)。専門は日本経済論、家計分析、経済統計論、応用ミクロ経済学。東京大学大学院修了後、慶應義塾大学専任講師、京都大学講師、神戸大学准教授、一橋大学准教授、財務省財務総合政策研究所総括主任研究官、一橋大学教授を経て、2020年9月より現職。統計委員会臨時委員、社会保障審議会臨時委員。日本政策投資銀行設備投資研究所客員主任研究員、経済産業研究所ファカルティフェロー、財務総合政策研究所特別研究官。主著は『現代日本の消費分析:ライフサイクル理論の現在地』(2023年)。