海外の現場から

シンガポール建国60周年を迎えて

2025年10-11月号

長谷井 宏之 (はせい ひろゆき)

DBJ Singapore Limited CEO & Managing Director

今年8月9日、シンガポールは建国60周年を迎えた。現地で暮らす者として、国を挙げた祝賀イベント「SG60」に立ち会えたのは貴重な経験だった。60年という年月は、日本のように長い歴史を持つ国と比べればまだ浅い。しかし1965年の独立時には小さな貿易都市に過ぎなかったこの地が、今や世界有数の貿易国家・金融センターへと成長したことを思うと、その推進力には驚かされる。改めて、この国の歩みを敬意をもって振り返らずにはいられない。

少しずつ赤と白に染まる街

6月の終わり頃から、週末のたびにマリーナベイ周辺でナショナルデー・パレード(NDP)のリハーサルが行われていた。メイン会場のパダン広場には観覧席が少しずつ組み上がり、赤と白の国旗や垂れ幕が日に日に増えていく。夕暮れ時になると軍の戦闘機やヘリの編隊が轟音と共に空をかすめ、街の空気が次第に祝賀ムードへと切り替わっていくのを肌で感じた。
祝祭の雰囲気はオフィス街や商業施設、さらには公営住宅のベランダにまで広がった。国旗やSG60の記念ロゴがそこかしこに掲げられ、普段は無機質な都市空間が少し華やいで見える。日常生活の風景に、自然に「建国60年」という節目が入り込んでくるのだ。
前日の8月8日には、小学校では児童たちが赤いシャツを揃えて登校していた。大げさな祝賀というより、地域ぐるみで「みんなで同じ色を着る」ことを楽しむ雰囲気で、国を背負う世代の素朴な姿に心が和んだ。

ナショナルデー・パレード(NDP)とその余韻

8月9日のナショナルデー当日。この日は国の祝日でもある。NDPは毎年の一大イベントで、チケット入手は国民でも容易でない。会場外のマリーナベイ周辺でも楽しめるのだが、私は周辺の混雑と熱気を避け、クーラーの効いた自宅でテレビ中継を通じてその様子を見守ることとした。
夕刻、大統領や首相をはじめとする政府要人が会場に揃い、その前で軍や消防、警察など制服組が堂々と行進する。パラシュート部隊が空から舞い降り、戦闘機やヘリが頭上を通過する。夜には市民やパフォーマーによる演出が続き、マリーナベイのランドマークが赤と白にライトアップされ、クライマックスに花火が南国の夜空を鮮やかに彩った。都市全体がショーアップされた瞬間だった。
今年はさらに翌10日に「Mobile Column」と呼ばれる市街地パレードが行われ、戦車や装甲車が市街を走り抜けた。金融街や商業地を往来する道路に重厚な車列が現れ、沿道の子どもたちが手を振る姿は非日常的だった。日常生活の舞台に国防が入り込む光景は、祝祭であると同時に「安全保障を体感する場」にも思えた。
ところが、身近なシンガポール人に感想を聞くと反応はさまざまだ。「混んでいるし行かない」、「休みなのはうれしいけど興味はない」といった声も少なくない。同じ行事に対して、世代や立場によって距離感が違う。その温度差は、国の意図とは少し異なり、成熟し考え方も多様化した社会を映し出しているようだった。

歴史の重みと国威発揚の必然性

シンガポールは1965年8月9日に、マレーシア連邦から「排除される」形で独立を宣言した。望んだ結果ではなく、むしろ予期せぬ形で連邦からの離脱を余儀なくされた。以降、国民と指導者は窮地に立たされた国家を必死に立て直し、その繁栄は「自ら勝ち取ったもの」と位置づけられるべきだ。
だからこそ、この国の建国記念日は軍事パレードが中心であり、国家としての自立と防衛を強調する意味を持つ。軍の存在を国民の前に示すことは、単なる演出ではなく「国家の根幹」を思い出させるための儀式なのだ。
この構図はフランス革命記念日のパリ祭を思い起こさせる。自由や独立は与えられるものではなく、勝ち取るものであり、また守り抜くにも「力」が必要であることを市民に思い出させる点で共通している。
人口も国土も小さく、多民族国家でもあるシンガポールにとって、国民の団結を演出することは国家の生存条件だ。国威発揚の強調は必要な儀式であるが、逆にいえば「そうしなければまとまりを保てない」という脆さの裏返しでもある。この皮肉を、パレードを見ながら強く感じた。

日常へ戻る街、そして次の物語へ

そんな思いにふけっている間にも、街はすぐに10月のF1グランプリに向けてサーキットの工事が始まり、デパートには色鮮やかに、さまざまなレーシングチームのグッズが並ぶ。前日までの祝祭感は急に薄れ、次の大イベントへと移行していく。まるで都市そのものが大きな舞台装置であるかのようだ。あまりに切り替えの早い光景には毎度驚かされるが、それもまたシンガポールらしい実利主義の表れなのだろう。
この国は「常に新しい物語を紡ぎ、ヒト・モノ・カネを動かし続けること」で自らを支えている。駐在員として日々を過ごす中で、そのダイナミズムとともに、強さと弱さを併せ持つ都市国家の姿を垣間見た。

著者プロフィール

長谷井 宏之 (はせい ひろゆき)

DBJ Singapore Limited CEO & Managing Director