『日経研月報』特集より
Viewpoint
イノベーションについての雑感 ~John Martinis博士との対話から~
2025年12-2026年1月号
――「イノベーション」とは何であろうか?
この言葉が初めて世に出た時の定義は「経済活動の中で生産手段や資源、労働力などをそれまでとは異なる仕方で新結合すること」というものでしたが、その後さまざまな定義が乱立し今に至っている概念です。しかしながら、「研究成果を活用したスタートアップの育成もしくは新規事業の成立により社会をより良いものとする」というものが、イノベーションの一つの形態であるというのは確かであろうと考えます。
私は株式会社日本政策投資銀行(以下、DBJ)出向前から、自分が計測技術という他の研究をサポートすることで初めてその存在意義を示せる研究分野に従事していたため、今風に言えばユースケース開発を通じた自身の技術の改善や普及のためとして、自分の開発した計測技術(装置)を他の研究者の先端的な研究の遂行のために提供していましたが、今振り返って思えば、イノベーションの始まりでもある研究シーズの実証のサポートをしていたとも言えるのではと考えています。そのためでしょうかイノベーション環境(いわゆるエコシステム)に関して、他分野の研究をされていた方よりは我が事として、どのようにすればうまく成立させられるのだろうかと自然に考えるようになっていました。
そのような中で2022年にDBJに出向、実際にスタートアップ投資に関わるようになり、業務としてもスタートアップ育成の事業環境にはどのようなエコシステムがあるべきなのかと、今度は利用者側から実践的に考える機会を得ることができました。
そうした経験を通じて、スタートアップの成長とは、一つの組織が出来上がることと等しいので、当たり前ですが研究開発以外の経営、営業等を担うそれぞれ異なるスキル・能力を持つさまざまな人材が、その成長ステージに応じて集まらなければ成り立たないのだと実感しました。
更に、スタートアップによる社会変革が日本以上にダイナミックで、見本とも認識されているアメリカでも、地域によりエコシステムの能力に違いがあり、その中でもシリコンバレーは高い実績を示しています。そして、その成功の理由として、成長ステージにあった能力の人材を獲得できる(現れる)ということだと紹介されたスタンフォード大学のRichard B Dasher先生のシリコンバレーのスタートアップエコシステム論に加え、出向期間後半に注力することとなった量子コンピューターの事業化についての調査の中で再会した、研究者時代からの知り合いであり、今年のノーベル物理学賞を受賞されたJohn Martinis博士が立ち上げた超伝導量子コンピューターの事業化を目指すスタートアップ「Qolab inc.」に対するDBJの出資検討プロセスの中で幾度かあった彼との会話の中で、結果としてふさわしい人が集まらなければできないことは当然ですが、そのためにはそれらの人々の参集を可能とする環境がなければ実現できないのだということにも、気づくことができました。
それは具体的には、Martinis博士が特に強調していたことなのですが、
「量子コンピューターの研究開発では、サイエンスは当然大事だが、それ以上にエンジニアリングが極めて大事で、今後の開発ではその能力をどれだけ高められるかがその成否を左右する。そして、そのエンジニアリング能力の向上ということは、設備を揃えること以上にそこに関わるエンジニアの能力も高めるということであるが、外部から量子コンピューターのような分野に精通する優秀なエンジニアに来てもらうことには限界があるので、自分たちの組織内部で育てていかないといけない。しかしながら、一般的にアカデミア色の強い組織ではそのような優秀なエンジニアに対する適切な待遇を用意することが困難で、それが、外部から見ると恵まれていると思われるカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)やGoogleを離れスタートアップでの量子コンピューター実現を選択するに至った理由の一つだ」
と伺い、自身のそれまでの研究者人生の中で折々感じていた、適切な人に参集いただくための環境としての適正な人事制度の重要性について、改めて気づかされました。
上記のような経験を通じて、イノベーション実現の下支えとしてのイノベーションエコシステムを成立させるということは、適正な時に適正な場所(環境)で、適切な(ふさわしい)人が参集できる環境がある(できている)ということであると考えるに至りました。これが実質的に機能するための前提は、人材流動性が十分に確保されるということで、単純化すればアメリカがイノベーション環境として優れている理由も、人が容易に参入(就職)・退出(退職)することが可能な環境であり、またそれが現地の方のメンタリティーに合っているということに尽きるのだと感じるに至りました。(これは、今思えば私が研究者時代でも感じていた、彼らから感じる底抜けの楽天的な性格とも通じるものがあると考えます。)
しかし、その環境を自分も含め安定志向が強い日本人が大多数のプレーヤーである日本の中で実現するということ、換言すれば社会全体での人事制度(慣行)の中で機能させるためには、自由と保証のバランスが大事なのだろうと想像はするものの、いまだ具体的にどうすればできるのかについては良いアイデアを思いつかないで悩んでいるところです。ただ、スタートアップという挑戦の場を選び、適切な環境を整え新たな可能性を切り拓くMartinis博士の姿を間近で見ると、この悩みこそがイノベーションの本質なのかもしれません。

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