『日経研月報』特集より
明日を読む
「長生き」の価値
2026年2-3月号
戦後日本の平均寿命は顕著な伸びを示した。1955年には男性58歳、女性62歳であったものが、2024年には男性81歳、女性87歳まで延びている。わずか数十年の間に日本は世界でも有数の長寿国となった。この変化は、所得向上を通じた栄養状態の改善、上下水道を含むインフラ整備の進展、公衆衛生の向上など、経済成長の成果であり、豊かさの象徴ともいえる。
しかし、経済学の枠組みでは、長寿は必ずしも「望ましいこと」とは評価されない。寿命は生涯を通じた消費水準の決定と不可分の要素であり、しばしば「長生きリスク」として扱われる。標準的な考え方である「ライフサイクル理論」が前提とするのは、生涯所得が一定である限り、寿命が延びれば1年あたりに利用できる資源は減少するという単純な事実である。予期せず長生きをするほど老後の生活水準は低くなる可能性があり、寿命の延びは「リスク」なのである。
この「長生きリスク」に対応する社会的な制度が公的年金である。人生の長さを予測できないという不確実性を、社会全体で分担しようとするしくみである。平均寿命を基準に保険料を徴収し、実際に長生きした人にはより多くの給付が回るように設計されている。保険の原理を応用したもので、合理的なリスク分散の手法である。
ただし、公的年金は「保険」としては特異な構造を持っている。たとえば、自動車保険であれば、ケガなどの「不幸に見舞われた人」に保険金という給付が行われる。それに対し、公的年金でのリスクは「長生き」のことであり、いわば「不運にも長生きをしてしまった人」に対してより多くの給付がされる。強制的に徴収された保険料が、一般には「幸せ」であるはずの人により多くの給付がされる点で特殊な制度なのである。
長生きできれば、それ自体は望ましいことである。一方で、長生きの結果として貧困状態に置かれるとすれば、それは不幸と評価されうる。公的年金をより公平なものとするには、長生きの価値と生活水準の低下が均衡するように設計されることが望ましい。長寿という幸運に恵まれるなら、年金数理的には少し損なくらいがちょうどよいのである。
問題は「長生きの価値」をどのように評価すべきかである。経済学では、財やサービスの価値を、「どのような選択をしたか」という行動に基づき推定する。この考え方は「顕示選好」とよばれる。ここでの議論に応用すると、もし人生の長さを自由に選べるなら、たとえば短命で高い消費水準を享受する人生と、長寿だが消費水準の低い人生のどちらが選ばれるかを比較することで、長生きの価値を定量的に把握できるということである。しかし、現実には寿命は選択不可能であり、実際の選択行動は観察できない。その意味で、経済学の枠組みで「長生きの価値」を説得的に計測することは不可能なのである。
この経済学的に(言い換えれば「科学的に」)「長生きの価値」を測定できないという事実は、社会保障制度をめぐる議論を複雑にする。近年の社会保険料負担の増大は、しばしば若年世代と高齢世代の対立として語られるが、本質的には、すでに「長生き」が確定した人々にどれほどの資源を配分するべきかという価値判断の問題である。寿命や生命の価値を金銭的に議論することには強い抵抗が伴い、倫理的配慮も欠かせない。しかし、長寿が一般化した現代において、この問題を回避することはできない。
長寿社会は日本が獲得した豊かさの成果であるが、同時に「長生き」がもたらす価値をどのように評価するかが問われる社会でもある。財源がないから高齢者の生活を切り捨てる、若者もいずれ高齢者になるから現状を維持、そうした議論は問題の本質をとらえていない。「長生き」が個人にとってどのような価値を持つのか、その恩恵を受けられる人を社会がどのように扱うべきなのか、という哲学が問われている。
Well-being 