『日経研月報』特集より

人生100年時代の幸福論 ~幸せのU字型曲線~

2026年2-3月号

小塩 隆士 (おしお たかし)

一橋大学経済研究所 特任教授

自分がどれだけ幸せかとか、生活にどこまで満足しているか、といった「ウェルビーイング」(well-being)をめぐる議論をよく耳にするようになった。「幸福感」と訳しても、大きな問題はないだろう。
「幸福感は所得とともに高まっていくが、どこかで頭打ちになって、その後は低下していく」という話を読者の皆さんはどこかで聞いたことがないだろうか。これは、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン教授らの研究成果である。米国の調査では、幸福感は収入が多いほど高くなるが、年収が7万5000ドルでほぼ頭打ち状態になる。同様の傾向は、頭打ちになる収入の水準こそ違うものの、日本の社会調査でもある程度確かめられている。
では、幸福感は年齢とどのような関係にあるのだろうか。140カ国以上の国々のデータを使った国際比較研究によって、興味深い事実が確認されている。つまり、国や地域によって幾分違いはあるものの、人々が抱く幸福感は若いころから徐々に低下していき、中高年で底を打って、その後徐々に上向いていくという傾向がある。年齢を横軸に、幸福感を縦軸にとってグラフを描くと、U字型の曲線が得られるわけだ。
学校を卒業して社会人となり、仕事の経験を積んでいくと、いろいろつらいことも増えてくる。結婚や出産・子育てという幸福感を高める(人によっては逆かもしれないが)イベントもあるが、その一方で、仕事が忙しくストレスがたまっていくかもしれない。子供の受験に付き合うのも大変だし、住宅ローンの返済にも苦労する。
そういうことを考えると、幸福感が中高年に差し掛かるまで低下していくことは、直感的に何とか理解できる。しかし、幸福感は中高年で底を打ち、その後は徐々に上向いていくという。高齢になると、私たちは幸せになる。本当にそうだろうか。むしろ逆のような気もする。歳をとると健康面でいろいろ問題が出てくる。それまでの不摂生がたたって生活習慣病に悩む人も増えてくるだろうし、要介護状態になるかもしれない。所得も若い頃に比べると伸びない。場合によっては配偶者に愛想をつかされて離婚するケース、あるいは死別するケースもあるだろう。親の介護も始まる。幸福感にとっては、明らかな危険因子だ。
こうしたマイナス要因があるにもかかわらず、加齢によって幸福感が高まるのはどうしてだろうか。不思議である。実は、幸福感と年齢との関係を正確に把握するのはそれほど容易ではない。年齢の影響だけではなく、世代の影響も反映しているかもしれないからだ。
例えば、2020年時点のデータを使って50歳と70歳の幸福感を比較しても、それは、二つの年齢の違いによる差だけでなく、1970年生まれと1950年生まれという世代の違いの影響も反映しているだろう。私たちが知りたいのは、世代の違いではなく年齢の違いで幸福感にどこまで差が出てくるかだ。それを知るためには、一年分だけでなく、何年か分のデータを集めて調べる必要がある。
そうした世代の違いだけでなく、調査年特有の効果なども処理した上で、年齢と幸福感の関係を調べると、日本でも緩やかなU字型曲線が描けることが確認できる。幸福感は30歳から徐々に低下して60歳前後で底を打ち、その後は改善する。
さらに、データで示される年齢と幸福感の関係には、加齢による健康悪化が幸福感を引き下げる効果も反映されている。同様に、親の介護による苦労も含まれているはずだ。そうした要因を取り除くと、高齢になるほど幸せになるという傾向はより明確になる。
こうした状況の原因解明は、専門家の間でも十分なされていない。歳をとると、「幸せのハードル」が引き下げられるのかもしれない。たいした出世もできず、平凡な勤め人で現役生活を終わったが、年金や蓄えも少しはあるし、孫も生まれた。のんびり老後を送ることができるのであれば、それでよしとしよう、と。さらに、齢を重ねていくと、付き合いたくない人とは付き合わず、気心の知れた人だけに付き合いを絞っていく傾向があることも分かっている。その点に注目する心理学の研究もある。
歳をとるほどつらい思い出は忘れ、楽しかった思い出だけが心に残るという、精神を安定化させる自動調整機能もありそうだ。歳をとると、世の中のたいがいのことには慣れてしまい、あまりショックを受けなくなるのかもしれない。そして、幸せでない人は早目に他界しており、統計に姿を見せるのは幸せな人だという、統計上の歪みも少しはあるだろう。「人生100年時代を幸せに生きる」ためには、高齢者の幸福感の決定要因の解明が意外と重要な研究課題になりそうだ。

著者プロフィール

小塩 隆士 (おしお たかし)

一橋大学経済研究所 特任教授

東京大学教養学部卒業後、経済企画庁(現内閣府)、JP モルガン勤務等を経て、2009~24年一橋大学経済研究所教授、2024年より同特任教授。大阪大学博士(国際公共政策)。専門は公共経済学。著書に、『健康の社会的決定要因』(岩波書店、2025年)、『日本人の健康を社会科学で考える』(日本経済新聞出版、2021年)、『くらしと健康』(岩波書店、2018年)、『「幸せ」の決まり方』(日本経済新聞出版社、2014年)、『再分配の厚生分析』(日本評論社、2010年)等。